2007年8月30日

基本は多数決!

自由の国では人々が自由に自分の意見を持つことができて、その自由が保障されていますよね。

だから全ての物事にはポジ派、ネガ派がいて...
じゃあ世間はどうやってまとまっていくのかっていうと、多数決なんですよね。

今朝のめざましテレビ、「エビバデNY」では街の落書きを紹介していました。
私がいた頃にはいたるところで見ることができた落書きですが、その後締め出しをくらったそうで、今では街はもちろん、地下鉄までもクリーンだそうです。

ストリートカルチャーだと賞賛する人たちがいるわけですが、落書きは明らかに犯罪であって本来(社会のルール上では)あってはいけないこと。
ボニーとクライドが英雄になるお国柄ならでは...と感じます。

なにしろ、街中から落書きを徹底的に追放する一方で、ここだけは落書きOKとする場所を設けているわけですから、我々日本人には理解しにくいことではないでしょうか。
大多数の人が落書きを犯罪として認める一方で、それを文化の一つと考えて、残していこうとするあたり、日本とは自由の背景と歴史が違いますね。

この自由という感覚の違いについてはまたいつか書きたいと思います。

2007年8月26日

雑貨ビジネス要注意 その5

こちらにまとめ編をアップロードしてありますので、どうぞ♪

とにかくSくんに連絡が取れたことで一安心でしたが...それも数日のことでした。

Sくんから手紙が届きました。
想像通り、中には郵便為替が入っていました。
これでクレジットカード会社に支払いのチェック(小切手)を送れます。
よかった!
Sくん、ちゃんと約束守ってくれたんだ。

...ん?

為替に記載された金額がどうも足りません。
確かに用意できるだけのお金と言っていましたが...実際には100ドルほど足りません。

今回は何とかなるとしても、次回どうなるんだ...?

一気に翌月に来る25個分の請求書の支払いが不安になり、Sくんにコンタクトを試みます。
電話、電報、手紙...と当時考えられるあらゆる手段を尽くしましたが、その後Sくんと連絡が取れることはありませんでした。
ビデオ店や、アルバイト仲間にも網を張っておきましたが全く駄目でした。

授業料としては高い出費となり、友人を一人なくしました。

最初の時点で断っていたら、今でもSくんと交流があったでしょうか?
Sくんは今どこで暮らしていて、この件を憶えているのでしょうか?
そして、実際あのときSくんには何があったのでしょうか?

あの一件以来、他人に1円のお金も貸さなくなりました。
今でもSくんが見つかればお金を返してもらって、野球帽は全部売れたのか確認したいと思っています。

ちなみにSくんの名前をネット検索しても彼らしき人はヒットしません。

2007年8月25日

雑貨ビジネス要注意 その4

こちらにまとめ編をアップロードしてありますので、どうぞ♪

野球帽を25個発送してから3日経っても、4日経ってもSくんから連絡がありません。

しかし予約客に15個すぐに販売して、即送金と約束したし、ちょっと連絡がないからといちいち電話していたら電話代で儲けがゼロ、場合によってはマイナスになるからとこちらからは連絡せずにおりました。

ところが、そうこうしているうちにいよいよクレジットカードの請求書が届きました。
前にも書きましたが、支払いはパーソナルチェック(小切手)を郵送するため、現金の準備にはまだ少々の猶予があります。

仕方ないのでSくんに電話...
留守電... メッセージを残します。
翌日... 留守電... 事情を詳しく残します。
翌々日... 留守電... とにかく連絡をくれと残します。

しかし、Sくんから電話はありません...

いくらDJ見習いで帰宅が遅いといえ、朝方なら絶対につかまるだろうと更に翌日、日本が朝早い時刻に電話...

つかまりました! 完全に寝ぼけた声です。
とりあえず用意できるだけのお金を今日送金するとの約束を取り付けましたが、重大なことがSくんの口から飛び出しました。

今回の25個は前回と形が違うから非常に不評で困っている。予約客も軒並みキャンセルとなっているというのです。何でも、前回分は形がおしゃれだったが、今回のものは野球少年がかぶる無骨な形で、もはやおしゃれアイテムではなくスポーツグッズだとのことでした。

受け取ったときにヤバイと思って、でもそのことを私に伝える前に何とかしてみようと思って電話しなかったということでした。

しかし、売れなかったといって野球帽を送り返されても困ります。 私には必要ないものだし、Sくんの希望で手配したものですから、私の立場からはSくんが責任を取るべきとしかいえません。 Sくんにしてみれば、自分がお店に取りに行ったとき現物を確認していれば、形の悪さに気付いて買わなかったし、なぜ私にその判断ができなかったのか...が本音だったと思います。

歪みあっても結果は出ませんので、今後は何であれすぐに連絡が取れるようにとお願いし電話を切りました。

続きは次回...

2007年8月24日

雑貨ビジネス要注意 その3

こちらにまとめ編をアップロードしてありますので、どうぞ♪

15個では足りないというSくん。
彼がDJ見習いをしているディスコの常連客からの予約分だけで20は必要、お店に置いてもらうのに30は必要だという判断から最低でもあと35個は欲しいということでした。

50個手配するということは個人にとっては結構な資金が必要になり、私もビビリ気味...

翌日アニエスべーに電話してみると次回の入荷予定は1ヶ月先で25個だと言います。
10個足りませんが、まだ一度も入金がないし、この程度にしておこうと思い、その25個を予約しました。

Sくんにはその旨を伝え、1ヶ月の間に予約を取りまとめて欲しいと頼んでおきました。
また、とりあえず彼の分と送った15個分は必ず先に送金することの了解も取りました。

~後日

アニエスべーから電話が入りました。
それはあの日から1ヶ月近い時間が経ったことの証でした。

25個入荷したけど他にも欲しいと言っているお客様がいて、いくつかでもまわしてもらえないか?と言われたため、1日待って欲しいとお願いし電話を切りました。

Sくんから未だ送金はありません。電話もありません。

そこでこちらからSくんに電話してみると、もう15個は完売していると言います。
どうして送金がないのか?という問いに対しては、こういう返事でした。

・お店から強い希望があって予約客には待ってもらって全部お店に回した。
・買取では金額の折り合いがつかず委託販売形式でお願いした。
・お店には支払日というものがあり、次回支払日に全額もらえることになっている。

Sくんはしきりに「申し訳ない」を繰り返し、その支払日まで待って欲しいと言います。

しかし、私もカード会社からの請求がまもなくやってきますので、待ってくれと言われればできる限りのことをしたいと思うものの、限度があります。

どうするのが良いかSくんと一緒に考えました。
結局、新たに25個送るから着いたらすぐに予約客に15個以上売って現金を確保し、それをこちらに送金するということで合意しました。

そして翌日私はアニエスべーに出向き、1個もまわせないと詫びを言って25個購入。
即郵便局から発送しました。

続きは次回...

2007年8月23日

雑貨ビジネス要注意 その2

こちらにまとめ編をアップロードしてありますので、どうぞ♪

アニエスべーの野球帽をビジネス(小遣い稼ぎ)にしようと考えたSくん。
20ドル弱の野球帽が8000円で売れるのだとか...
そこで、手に入るだけ全部買って送って欲しいと言います。

まだ彼に送った野球帽のお金ももらっていませんでしたが、1個分を送金するのも、100個分を送金するのも手数料はさほど変わらないからまとめて送金すると言います。

帽子を販売するお店からお金をもらったらすぐに送金するから何とかなるか?というので、
こちらのアニエスベーにはカードで支払うから、実際に自分が現金が必要になるまでに1ヶ月の時間があると判断し、1ヶ月以内に送金できるならOKだと返事しました。

普通はいくら友達でもお金の口約束はしないものだと思います。
しかし、自分にとってもひとつのチャンスなのではないか?と考えた私はSくんを信用し了解しました。

翌日ソーホーのアニエスべーに行くと、残りの野球帽は15個でしたので全て購入し、それでは足りないのではと思いマディソンアヴェニューのお店にも出向きました。ところが、野球帽はソーホーでしか扱っていないということでしたので、その日のうちにエクスプレス便で15個発送しました。

また2~3日してSくんから電話がありました。
15個では即完売してしまって足りないから、もっと何とかならないかという内容でした。

続きは次回...

2007年8月22日

雑貨ビジネス要注意 その1

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以前のエントリーでも書いたことがありますが、私は渡米前に三軒茶屋のレンタルビデオ店でアルバイトをしていました。

そのビデオ店では同じ世代(大学生)のアルバイトがたくさんいて、Sくんは服飾系の専門学校を出てアルバイト生活をする私より1つ年上のおしゃれ達人でした。
あるとき彼は(私たちにとっては突然に)ディスコのDJを目指しはじめ、ビデオ店と時間が重なるため辞めていきました。その後もちょくちょくお店に顔を出していたので縁が切れることはありませんでしたが...

渡米後半年以上経ってSくんから電話がありました。
何でも東京でメジャーなDJがニューヨークから帰ってきたときにアニエスべーの野球帽をかぶっていたそうで、調べたらアメリカのアニエスべー独自開発の商品とかで、他国では手に入らないとか...
それを買って送って欲しいという内容でした。

私は快諾し、翌日ソーホーのアニエスべーに出向きました。

その野球帽は 20ドル弱(だったと思います)で入り口付近に重ねて置いてありました。
野球帽としては高価でしたが、アニエスべーといえば当時松田聖子さんが家着として愛用しているといったことがきっかけで日本で大ブレイク。バブル景気がそれを後押しして一気に誰もが知るブランドへと成長した背景があり、そんなブランドの商品で日本では入手できないとなればSくんにとって税、送料、支払い手数料を含めると 5000円近くになったものの安い買い物だったのかもしれません。

一刻も早く欲しいというSくんの希望があったため、私はその足で郵便局に行き、エクスプレス便で発送しました。

2~3日後にはSくんからお礼の電話が入り、大変気に入ったようでよかったです。
その際に、友人が店長をしているブティックでこれを売りたいという希望があり、手に入るだけ送って欲しいと言われました。

続きは次回...

2007年8月21日

マドンナ

今朝のめざましテレビで、ニューヨークでは今でも年1回マドンナコンテストが開催されていることを知りました。

素人さんによるものまねコンテストなのですが、これだけ人気が維持できるのはすごいことですよね。 最初のヒット曲 "Like a Virgin" が 1984年ですから、もう23年になります。 ということは20前後の人たちは "Like a Virgin" を知らないのでしょうね。 こうやってどんどん歳をとっていくんだな...と最近よく思います。

ウェイビーなブロンドヘア、ボロかおしゃれか微妙なへそだしファッションで彗星のごとく現れ、瞬く間にマイケルジャクソンとツートップ体制になりました。 1990年の "Vogue" あたりが最高潮だったのではないかと思いますので、そういう意味では10年もたなかったとも言えますが、女優転身的な時期がありましたので、ヒットチャートから遠のいたのは仕方ないことかもしれません。

ある日私は前日の続きでミッドタウンの某レコーディングスタジオへ向かっておりました。 タクシーから見るマンハッタンはいつもと変わらぬ風景でした。 ところがスタジオに近づくとすごい数の人がストリートにあふれています。 私の乗ったタクシーがスタジオ前で止まると「キャーッ」という歓声が聞こえます。 何事だ?とタクシーを降りると「ガックリ」とテンションの落ちた空気が充満し、「何だよ、違うのかよ。」といった声まで聞かれました。 冗談じゃないです。 私はここに来る必要があったから来ただけで、他人から「何だよ」と言われる筋合いではありません。

私がスタジオ入りして少ししてからプロデューサーが到着しました。
「下の騒ぎは何だ?」と私が訊くと...
「今日はマドンナのレコーディングが入っているからね。」
「え~っ! マドンナ? 紹介してくれる?」
「無理」
「だってマドンナのプロデューサー(当時の)は同じ事務所だったんじゃないの?」
「そうだけど無理」
「じゃあサインを...」
「無理」

実は私も下にたくさんいる人たちと同じく、マドンナの大ファンでした。(笑)

結局その日はそわそわと落ち着かず、私の出番もほとんどなかったので、偶然を期待して何度もビルを出入りしたものの会えることはありませんでした。

私たちのセッションが終わったのは翌朝7時過ぎ。
帰りのエレベータの中で
「マドンナはまだいるのかな?」とあきらめきれない私。
「とっくに帰ったよ」

...ずっとミキサー卓にいたのになんで知ってるの?

2007年8月20日

子供の教育

ある日アパートの近くを歩いていた私に、5歳くらいの男の子がおもちゃの鉄砲の銃口を向けこう言いました。

"Get it! Don't take it."
「これでもくらえ! 銃を取るなよ」

ドリフターズばりの発想に思わず吹き出してしまいましたが、一緒にいた母親は「私関係ないし~」といった完全無関心状態...

よく西洋の親は子供の教育で他人に迷惑がかかることは徹底的に叱るといいますよね?
あれは嘘ですよ。

現実は先述の通りです。
人間に銃口を向けても叱りません。
あるいはあの場面では私がアジア人だったから無視されたのかもしれませんが、他に私が体験したことを考えてみても、他人の迷惑より我が子可愛さが優先される傾向があります。
日本と一緒です。

友人の子供の場合でも変わりません。
友達なんだからいいでしょ...的な空気が発生し、例えソフトクリームを(私の)Tシャツにベットリつけられても、親は笑っています。

レストランで子供が泣いているとき、子供の泣き声より大きな声で「NO!」と叱るお母さんも多かったです。

2007年8月16日

大好きだったWTC その4

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映画「ワールドトレードセンター」、ご覧になりましたか?

オリバーストーンは私が好きな監督の一人ですが、この映画でははじききれていないように感じました。
当然といえば当然かもしれません。

WTCは予告なく突然姿を消しました。そして予告なく突然に家族、恋人、友人の前から姿を消した人がたくさんいました。もう一度WTCがそびえたつマンハッタンが見たいという気持ちの人たちがたくさんいる一方で、つらいこともたくさん思い出します。

そういう複雑な人の心理を均等に満たそうとするとああいう映画になったんだと思います。

私はもう一度「あの」マンハッタンに会えるかもという思いで映画を観ました。
私にとってのマンハッタンはオープニングで晴々しく映し出されました。
私にはそれで充分でした。

私なりに整理がつきましたし、WTCのないマンハッタン(まだ現地で見たことはありませんが...)を受け入れることができました。
誰もなくしていないから無責任な発言かもしれませんね...

でも、私のようにWTCそのものが好きだった人間もいるわけで、自由の国アメリカはテロに屈することなく、シンボリックなビルを再建して欲しいです。

ワールドトレードセンターのツインタワー

2007年8月15日

大好きだったWTC その3

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前回、展望台と屋上のことを書きましたので、今回は地下です。

WTCの地下にはサブウェイが乗り入れていて、とてつもないエスカレータが設置されていました。
こんな感じです↓

ワールドトレードセンターの地下鉄エスカレーター

このエスカレータをサクサクと背筋を伸ばして昇り降りするビジネスマンを見ているのが好きでした。
私が住んでいたアッパーウエストサイドは商店が多く並ぶ地区で、どちらかというとカジュアルな服装で、店員さんといった雰囲気の人が多く、スーツで仕事をしている人を見かけることはまずありませんでした。

もちろん通学時の電車にはたくさんのスーツがおりましたが、電車に乗っているときの彼らは新聞を読んでいたり、抜け殻のようにボーッとしていることが多く、さながら昼間の動物園のようでした。

その点、WTCやウォールストリートをブラブラすると戦闘モードのビジネスマンをたくさん見ることができ、ナイトサファリのようでした。「そっか。ここで戦うために電車では力を温存しているんだな...」と思わせるほどパワーがみなぎっていました。

私はミュージシャンとの交流が多く、ビジネスマンとの交流はほとんどありませんでした。
(日本人から見て)アマチュアミュージシャンの多くは「ビジネスマンは自分たちとは別世界の生物だ!」という見かたをしており、彼らを一まとめにして「スーツ」と呼びました。
その時点で社会的にはビジネスマンのほうがまともで、地道で、お金もあるので、「いつか見てろよ!」といった負けん気がアマチュアミュージシャンにそう言わせていたのでしょう。

実際にミュージシャンとして成功している人でビジネスマンのことを「スーツ」と呼ぶ人は少なかったです。

続きはまた次回。

2007年8月14日

大好きだったWTC その2

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今はスタテンアイランドフェリーに乗ってもそこにWTCはありません。
皆さんご存知のように2001年9月11日WTCは崩壊しました。

この崩壊に関しては色んな憶測がありますが、それについてどうこう言及するつもりはありません。
なくなったという事実はもうどうしようもありませんから。

WTCは7つのビルから成り立って... といった概要も割愛させていただきます。
興味のある方はグーグルで検索してくださいね。

私がWTCを好きだった理由は...
・親近感:私が生まれた年に工事がはじまった。
・スケール度:完成当時世界一の高さのビルを並べて2本も建てた。
・尊敬と憧れ:背筋の伸びたビジネスマンを多数見ることができた。
・非日常:屋上の展望デッキは異次元空間だった。

タワー2には展望フロアがあり、有料でしたが直行エレベータで昇ることができました。
そこから見る自由の女神の何と小さかったことか...
そうです。私は昼間に行くのが好きでした。

一度だけ夜に昇ったことがありましたが、夜景は圧倒的にエンパイアステートビルディングに軍配が上がりました。
エンパイアは街のド真ん中。
WTCはマンハッタンの南端で水に囲まれた立地ですから仕方ありません。

そして!
タワー2には屋上展望デッキがあったのです☆
とても危険ですから、通路が作ってあってそこを歩くだけなのですが、デッキに居る人たちの話し声と風の音以外何も聞こえない大変不思議な空間です。屋上に設置してある機械の作動音もあったと思いますが、路上を歩いているときのノイズだらけの空間に比べたら異次元としか表現できません。

日頃レコーディングスタジオで超大音量の中に居た私にとってはこの上ない癒し空間でした。

そして展望台からはハドソン川の向こう側、ニュージャージー州の地平線を見ることができました。
ニューヨークでそれだけの距離の視界が開けるところは他にありません。(ロングアイランドとか水平線ならありますよ)
その「地の果て」を見ているだけでとても心が和みました。

続きはまた次回。

2007年8月13日

大好きだったWTC その1

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アメリカ映画の「ワーキングガール」ご覧になったことありますか?
内容は...忘れました。(笑)
でも、そこそこ面白い映画だったと記憶しております。

主人公(メラニーグリフィス)はスタテン島に住んで、マンハッタンの仕事場に通っていました。
その通勤手段に使っていたのが「スタテンアイランドフェリー」

このスタテンアイランドフェリーから見るニューヨークが私は大好きでした。

ロウワーマンハッタンの画像

初めて画像を登場させてしまいましたが、実はこれスタテンアイランドフェリーからの眺めではありません。(笑)
似たようなものってことで♪

すっきりと晴れた日には川の青と空の青が混じりあい、その間に浮かぶ要塞のように見えたマンハッタン。要塞の左側にはWTC(ワールドトレードセンター)がそびえたっていました。

この景色こそが私にとってのニューヨークでした。

続きはまた。

2007年8月12日

職業選択の自由

私たち日本人にも職業選択の自由は与えられていますが、今回のエントリーは別の意味で職業の自由をご紹介したいと思います。

アメリカでは「私(の職業)は○○です」と自己申告すれば、周りは○○として認めてくれます。
大変驚いたことでしたが、私があるアメリカ人に「将来はミュージシャンになりたい」と言ったところ、何を言っているんだ?といった表情で "You already are." (もうなってるじゃん) と言われました。

私たち日本人は音楽1本で生活が成り立ってはじめて「ミュージシャン」を名乗れるということを教えると、あちらも大変驚いていました。

アメリカでは、音楽で食べていくことができずアルバイトで生計を立てていても、音楽の道を志し、活動していればミュージシャンを名乗れるそうです。

私はその日以来 "I am a student." から "I am a musician." に変更しましたが普通にそれで通っていきましたので、やはりそれがアメリカ流なんですね。

自己申告制といっても、ちゃんと活動をしていなくてはいけませんよ。
ウソはしこたま軽蔑されますので、ご注意ください。

"What do you do for living?" と訊かれたら
"I am a musician." で良いですが、
"What do you to make living?" と訊かれたら
"I have a part time job at a record shop." などと答えてください。

何をする人なのか?と、どうやって生活を成り立たせている人か?は別の概念のようです。

2007年8月 7日

アメリカの人種差別 その③

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同じアパートの住民と人種差別について話していたときにショッキングな話を聞きました。

「人種差別を話題にするときいつも黒人が差別される側として言われるわけだけど、この間黒人の友達と話していたときこんなことを言っていたわ。」
「何て?」
「白人、黒人、その他」
「どういう意味?」
「黒人の地位は二番目だから叩かれる...」
「どういう意味?」
「つまり黒人の中には黄色、赤色は自分たちより立場が下だという見方があるのよ。」

これは大変ショックなことでした。

言われてみれば、私自身が街を歩いているときに黒人から
「おい。そこの中国人! xxxxxxxxxx」
「xxxxxxxxxxxxx中国人のくせに」
と、罵声を浴びせられた経験がちょくちょくありましたが、明らかに人を見下した物腰でした。

私が渡米後すぐに角刈りにしたことは別のエントリーで書きましたが、その髪型だった頃に集中してそういう目に遭いました。
その後私は江口洋介さんより一足早くサラサラロン毛にしましたが(笑)、身長が高いこともあり、その風貌はネイティヴアメリカン(インディアン)と間違えられることが多くなり、中国人扱いされることもなくなりました。

しかし、私に罵声を浴びせた黒人たちも別の形で知り合っていたら...
例えば同じアパートに住んでいて、会うたびに声を掛け合って握手する関係だったら、絶対にそんな物腰ではなかったはずです。

やはり人種差別は仲間意識と表裏一体なのでしょうね。
人と仲良くしようという気持ちがある限り、皮肉にも人種差別はなくならないのかもしれません。

美輪明宏さんが言う「腹六分のお付き合い」が国際社会にも適当ということなのでしょうか。

2007年8月 6日

アメリカの人種差別 その②

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あれは1992年4月でした。
テレビをつけた私は凍りつきました。
テレビの中とはいえ、かつて見たことのない状況がそこにありました。

(主に)黒人が町を破壊し、お店からテレビなどを堂々と持ち出す場面が延々と放送されました。
印象的だったのは、テレビなどの高額品を抱きかかえて店から走り出す者が多い中、誰よりも険しい表情の黒人男性がカメラに捉えられました。この男性、眉間に深くしわを寄せ、臨戦態勢なのですが、左腕で抱えているのは「観葉植物」。大人の腰丈くらいのグリーンでした。

どうして観葉植物だったのか...
よっぽど前から欲しかったのか、たまたまそこにあったから持ってきてしまったのか、自分が何を持っているのかわからないほど興奮していたのかはわかりませんが、「いつでもやってやる」オーラを発しながら歩道を行く彼の姿は私の心に深く刻まれ、今後も忘れることはないでしょう。

いわゆるロス暴動という事件です。
これはロスアンゼルスにおける人種差別問題の積み重ねに黒人たちが爆発したとされています。

着火の直接的なきっかけとなったのは「ロドニー・キング事件」でした。
白人警官数名が罪のない黒人男性をリンチする様子がニュースで報道され、これも私にとっては大変衝撃的でしたが、裁判沙汰になるも白人警官は無実となり、この結果に黒人たちが爆発したのです。

白人警察官による黒人リンチは実は頻繁行われていたらしく、また「ロドニー・キング事件」の少し前に、コリアンタウンで黒人少女が韓国系住民にライフルで射殺される事件も起きていました。

一連の報道の中で、穏やかな都市でも大停電が起これば、暴動じゃなくてもこういう状況になり得るとコメントした者がいて、私は事の重大さに気付かされました。

そして、これもまたロスアンゼルス...
どうして私たち人間は過去の失敗から学習しないのでしょうか? 理性は本能に勝てないのでしょうか?
O.J.シンプソン事件が1994年に起こりました。
元アメリカンフットボールのスタープレイヤーだったOJ。(私は俳優とかスポーツレポーターとして彼をテレビで頻繁に見ておりました。)
OJの奥さんは白人で、自宅敷地内にて何者かによって殺害されました。
OJは無罪を主張するも容疑者として逮捕。
裁判で陪審員の下した評決は有罪。黒人にとってはヒーローだったOJ。陪審員のほとんどが白人だったことが黒人社会を怒らせ、これは人種差別問題だとして暴徒化。
まだまだこのOJシンプソン事件は続くので、興味のある方は調べてみてください。

確かにニューヨークではこのようなことはありませんが、日常生活の中での小さな偏見や人種差別は多々ありました。

その③ではちょっとショッキングなことを書いちゃいます。

2007年8月 5日

アメリカの人種差別 その①

こちらにまとめ編をアップロードしてありますので、どうぞ♪

人間の根本的な部分に「仲間意識」というものがあり、他方で「戦う」、「争う」という概念も動物としてDNAに深く刻まれてしまって、つまり本能的にそれらを持ち合わせてしまっています。

ただ、我々人間は本能を理性で押さえ込んで社会生活を営んでいます。

だから人種差別を無くそうと言いながら、いつまでもなくならないのではないでしょうか?

「ニューヨークには人種差別はない」
在米中に学校の先生が言った言葉です。
理由は...
「いろんな国籍の人たちが狭い地域の中で共存しているから」

そのとき私は鼻で笑ってしまいました。
確かにアメリカの中では人種差別的な問題が大きくなることは少ないかもしれません。でも「ない」ということはないです。

しかし、その後ロスアンゼルスで暴動が起き、先生が言っていたこともまんざらではないと思いました。
どんな事件だったかはまた次回。

2007年8月 3日

国際免許証~オーストラリアにて

今回はオーストラリアねたです。

外国に行ってクルマに乗る予定がある人、あるいはパスポート以外の身分証明書として、国際免許証をとっていく人は多いのではないでしょうか?

私の場合、アメリカに行ったときは後者、オーストラリアに行ったときは前者でしたが、オーストラリアで経験したお話を。

まだ渡豪して間もないある日、私は自分の車で移動中に警察の検問に遭遇しました。
「免許証を見せてください」
「はい」
助手席に置いたカバンから国際免許証を取り出して見せる…
「これは何ですか?」
(ニュアンス的には「何じゃこりゃ?」)
「書いてある通り国際免許証です。」
「知らないなあ」
「そうですか?」
「オーストラリアでは使えないんじゃないの?」
「いいえ。使えます。」
「見たことも、聞いたこともないなあ…」

国際免許証は見たことも聞いたこともない人にとっては、大変疑わしいルックスです。
何しろ国際免許証なのに同じことが英語と日本語で併記されているのです。
日本語が読めない外国人にしてみれば、とても奇妙なシロモノに違いありません。

「観光客ですか?」
「いいえ。旅行会社に勤務してシドニーに住んでいます。」

国際免許証をじっくりと見ている…

「では確認してみてください。」
「いや。それには及びません。」
「そうですか。」
「はい。これがオーストラリアで使えるのかどうかわかりませんが、いずれにせよあなたはここに住んでいるのなら、一日も早く正式な免許証を取得してください。今回は見逃しますが、次回会ったときにまたこれを私に見せないように一日も早くですよ。」
「いいえ。これには有効期限がありますから、切れる前には普通の免許証を取得しますが、一日も早くという約束はできません。」
「…。」

警官は何か言いたそうな顔で私に国際免許証を返し、「行っていい」という合図をしました。

ハワイでレンタカーする人は多いと聞きますので、恐らく国際免許証も認知度が高く、このようなことはないのかもしれませんが、これがシドニーで実際にあったことです。

私はアメリカの後オーストラリアに行き、日常会話にあまり問題がない状況でしたから怯まず対処できましたが、クルマに乗るつもりで初めて海外赴任するビジネスマン、渡豪するワーキングホリデーや留学生は最初に免許証を取得するスケジュールを組んでおいたほうがいいでしょう。

一度生活パターンができてしまうと、その中で時間をやりくりして免許証を取りに行くのはとても難しいことです。私は会社にお願いして昼休みをずらしてもらい、1時間の休憩の間に筆記試験の練習に通い…(免許書取得の詳しい話は別のエントリーで書きますね。)実技本試験のときは会社を抜けさせてもらい…となりました。後から考えれば、引継ぎ期間中とか、自分担当の仕事が少ないうちに済ませておくべきでした。

それでは、そのうちに免許取得話でも。

2007年8月 2日

セラピスト

私はお世話になったことはありませんが、ニューヨークにはたくさんのセラピストがいます。
映画でご覧になった人も多いと思いますが、寝そべり姿勢の椅子が置いてあって、患者がその上でベラベラと話します。大抵のセラピストはほとんどしゃべらず、神妙な顔つきで、基本的に患者さんに同意します。

つまりこれ、「聞き役」仕事なんですね。
すごく悩んでいたけど、誰かに話を聞いてもらっているうちにスッキリしたこと…ありませんか?
セラピストは「A~ha」、「I see」、「Yes」、「Right」などの短い言葉で患者の話にアイノテを入れてくれます。

セラピーなんて精神的に病んでいる人が行くんじゃないの?と考えがちですが、実はそうでもなく、利用する人、しない人に分かれるものの、利用する人はちょくちょく行き、私が知る限りセラピーに行く人はニューヨークでは普通の人たちです。

私は子供の頃からガキ大将で、他人事につい首をツッコミたくなる、おせっかいでウザイところが多々あり、いわばセラピストとは対極の位置にいる種類の人間です。
最近は年齢的にもそんなことではいけないと、一生懸命自分をコントロールしていますが、実は聞きたくて、知りたくてウズウズしていることが多く、本質的な部分は変わってません。

ところが、そんな私にアメリカ人の友人たちは「お前はセラピストで食べていける」と口を揃えて言い、実際に友人が突然アパートを訪ねてきて、しばらくしゃべって帰っていくことが多々ありました。

なぜだと思いますか?

理由は簡単!
その頃はまだ私、しゃべれませんでしたから。(笑)
人が話していることは大体わかるようになり、だけど自分はまだしゃべれない…そんな時期でした。

「実は彼女が…」、「実は彼氏が…」
そんな恋愛ネタを話し始めると、もう自分の意見を言いたくてしょうがないのに、言えないからニコニコ聞いているだけだったのです。時々「A~ha」、「I see」、「Yes」、「Right」なんて言いながら。

もちろんそんな秘密話を他人に漏らさないところも評価されたのでしょう。
基本的に私の友人は「言いたがり屋」さんが多かったですから、友人同士で「katz から聞いてるかもしれないけど…」「いやいや。聞いてないよ。」なんて会話がしょっちゅうあったのかもしれません。
本当は漏らしまくりたかったんですけど、できなかっただけ。(笑)

そのうちに「Always katz」なんて呼ばれるようになりました。
いつも同じテンションだってことです。
実は違うのに、なんだかそんなこんなで先生扱いされると気分がいいもので、アメリカにいるうちは話せるようになってからも「Always katz」を演じました。

その代わりといっては何ですが…オーストラリアでは言いたいこと言いまくってやりました。(笑)

あのままニューヨークに居続けていたら、そのうちに我慢がストレスになり、自分がセラピー通いしていたかもしれませんね。