数回に分けてコーネリアス・ヴァンダービルトのことを調べてご紹介してきましたが、今のままでは読みにくいので、ここでまとめておきます。
Cornelius Vanderbilt (May 27, 1794 - January 4, 1877)
出身地 : ニューヨーク州スタテンアイランド
フェリー会社勤務の父と農婦の母の間に9人兄弟の4番目として生まれ、家庭が裕福ではなかったのでまともな教育を受けることなく育ちました。
彼の祖先 ジャン・アートソン はオランダのビルト村で農業に従事しておりましたが、1650年に年季奉公人としてニューヨークに移住しました。
ヴァンダービルトという苗字は、アートソンがアメリカ移民後につけたもので、 "ビルト村の" というオランダ語(van der bilt)を一語に短縮したものです。
後にヴァンダービルト家の多くの人はイギリス系アメリカ人となり、オリジナルのオランダの血を引く男子は コーネリアス の祖父である ヤコブ・ヴァンダービルト が最後となりました。
コーネリアスは16歳になるとニューヨークハーバーで貨物と人の運送を仕事にしました。
2年後に1812年戦争が始まり、彼は軍と契約し水上運送の利権を手中にします。
そのうちにコーネリアスはニューヨークのフェリー運行を牛耳るまでになっていきました。
そして1813年、近くに住んでいたいとこのソフィアジョンソンと結婚、13人の子供に恵まれました。
1818年、彼は所持していた艦船を売り払い、トーマス・ギボンスが経営する蒸気船会社 "ギボンス・ライン" に入社しました。
当時ニューヨーク議会は、ロバート・フルトンとロバート・リビングストンに蒸気船交通の30年の法的独占を与えましたが、コーネリアス(ギボンス・ライン社)は「ニュージャージー・マンハッタン線」(ニューヨークとフィラデルフィアの経済交流で重要)の運賃を勝手に安く販売し、大きな利益をあげました。
その間に、妻のソフィアはニュージャージーの停泊所近くに旅館・レストランを経営し、大成功。
こうしてヴァンダービルト家の財産はどんどん膨らんでいきました。
リビングストンとフルトンはヴァンダービルトを何とかして捕まえようとしますが、うまくいかず、結局自分たちの蒸気船の操縦士として好条件で仕事をオファーしました。
彼は「私は自分の目標達成に重きを置いており、お金儲けはそれほど重要なことではない。」と答えたそうです。
彼にとっての目標とは法的独占体制の崩壊でした。
リビングストンとフルトンはギボンス・ライン社を告訴、最高裁まで争われたもの、結局彼らは独占権を失くしました。
コーネリアスは1829年までギボンスライン社に在籍し、商売のノウハウを学び、貯金をして独立。
ハドソン川で「アルバニー・ニューヨーク線」をスタートしました。
彼はまず運賃競争でダニエル・ドリュー社に打ち勝ち、ダニエル・ドリュー社を撤退に追い込みました。
すぐにヴァンダービルト・ライン社は、「ハドソン川の安くて快適な船舶」として世間から認められる存在になりました。
1940年代には彼の会社は100隻もの蒸気船を所有し、事業を拡大していきました。
競合会社はひとつにまとまり、ヴァンダービルトを追い出しにかかりました。
そして彼はロングアイランド(ニューヨーク州)・ボストン間の運行に打って出ます。
これは決して彼が負けを認めたのではなく、確実な前進でした。
彼は自らを「コモドール(提督)」と位置づけ、しばしば全身を海軍の軍服でまといました。
1849年、カリフォルニアはゴールドラッシュに沸きます。
コーネリアスは1851年に探鉱者向けにニカラグア共和国経由カリフォルニア行きの運航を開始しました。
ニューオリンズ発、船中泊にてニカラグア共和国へ、大西洋側から太平洋側へ陸上移動し、別の船に乗船、サンフランシスコへ北上しました。
これにより従来のパナマ地峡コースに比べ960kmの近道となり、料金を半額に設定しました。
このビジネスは大成功を収め、経営が苦しくなった競合会社は彼に1ヶ月5万ドルにて、この路線の運行停止契約を結びました。
1855年には豪華客船にも着手し、数年間フランス線を運航しました。
1844年、コーネリアスはロング・アイランド・レイルロード社の役員に選任されました。
当時ロング・アイランド・レイルロード社は蒸気船接続のニューヨーク・ボストン線を運行していました。
そして1857年、彼はニューヨーク・ハーレム鉄道の役員になりました。
そこでまたしてもダニエル・ドリューがライバルとなりました。
情勢はドリュー優勢でしたが、コーネリアスは海運業の資本を徐々に引き上げ、ニューヨーク・ハーレム鉄道、ハドソン・リバー鉄道、そしてニューヨーク・セントラル鉄道と次々に買収、会社の強化を重ね、1869年ニューヨーク・セントラル・ハドソン・リバー鉄道へと合併を果たしました。
1868年、妻のソフィアが死亡。
翌年コーネリアスはカナダでアラバマ在住、43歳年下のいとこと再婚します。
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余談ですがコーネリアスは鉄道事故に巻き込まれたことがありました。
1833年11月11日、カムデン&アンボイ社の汽車がニュージャージー州ハイツタウン近郊の牧草地で脱線事故を起こしました。
このアメリカ鉄道史上最も初期の鉄道事故のうちの1つにコーネリアスは巻き込まれました。
彼は肋骨を2本折り、それが肺に突き刺さったため全治1ヶ月の大怪我を負いました。
実はこの汽車には元大統領のジョン・クインシー・アダムスも乗車していて、彼は脱線した客車の1両前に乗っていたため無事でしたが、息子を亡くしました。
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1871年、コーネリアスはニューヨーク・アンド・ニューヘイヴン鉄道と業務提携し、2社が共に乗り入れる操車場を東42丁目に建設することになりました。
これがグランド・セントラル・ターミナルの前身です。
1873年、ニューヨーク・シカゴを鉄道で結びました。
そしてコーネリアスはエリー鉄道を傘下に治めようとし、それが彼の最大のライバルとなる "ジェイ・グールド" (当時のエリー鉄道の役員)との対立のはじまりとなりました。
グールドは水増し株で一時的にエリー鉄道の株価を吊り上げ、コーネリアスはそうと知らずに高値で大量の株を取得、勝利の女神はガウルドに微笑みました。
コーネリアスの損失は7百万ドルとも言われていますが、後にグールドはこのお金をコーネリアスに戻したそうです。
コーネリアスはそれまで望んだものすべてを手に入れてきましたので、この一件は屈辱的でした。
損失を被ったときに「スカンクは蹴るな」と言ったそうです。
実際にグールドにしてやられたのはこれ一度ではありませんでした。
その頃、世界恐慌がアメリカにも影響し始めましたが、そのさなかに彼はグランド・セントラル・ターミナルの建設をスタートしました。
この事業は不況で職をなくした多くの人々の生活を支えました。
ニューヨークセントラル社はこの不況下においても利益計上できた数少ない鉄道会社のひとつでした。
1877年1月4日
とても寒い日にコーネリアスは82年の生涯に幕を下ろしました。
彼の死を悼むかのように吹雪がグランドセントラル操車場のガラスの天井を割りました。
コーネリアスには敵ばかりで友人は一人もいませんでした。
子供でさえ、ウイリアム以外とは接点を持とうとしませんでした。
他の子供には自分の事業を引き継ぐ能力がないと判断したからです。
そんなエピソードから察するように彼は全く慈善家ではありませんでしたが、100万ドルをテネシー州のセントラル大学に寄付するよう遺書に記しました。
セントラル大学は後にヴァンダービルト大学に改名しました。
彼の遺産は1億ドル以上と言われましたが、そのほとんど(9500万ドル)は息子ウイリアムが相続しました。
(娘8人にはそれぞれ50万ドルしか分配されませんでした。)
彼の資産は2007年の貨幣価値に置き換えると1430億ドル(120円換算で17兆1600億円!)と言われております。
アメリカ史上2番目の資産家だそうです。
ウイリアムはコーネリアスの死後数年して西部電報会社の運営に携わりはじめました。
同じ頃、父のライバル "ジェイ・グールド" はアメリカン電報会社を創立。
西部電報会社を倒産に近いところまで追い込みました。
そしてウイリアムは計画的にアメリカン電報会社の買収を余儀なくされ、グールドは莫大な財を築きました。
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「もし私がまともな教育を受けて育っていたら、ほかのことは何も習得できていなかっただろう。」
- コーネリアス・ヴァンダービルド 1853