2007年12月16日

グランド・セントラル・ステーション その12

こちらにコーネリアス・ヴァンダービルトについてのまとめ編をアップロードしてありますのでどうぞ♪

前回のエントリーの続きです。

1871年、コーネリアスはニューヨーク・アンド・ニューヘイヴン鉄道と業務提携し、2社が共に乗り入れる操車場を東42丁目に建設することになりました。
これがグランド・セントラル・ターミナルの前身です。

1873年、ニューヨーク・シカゴを鉄道で結びました。
そしてコーネリアスはエリー鉄道を傘下に治めようとし、それが彼の最大のライバルとなる "ジェイ・グールド" (当時のエリー鉄道の役員)との対立のはじまりとなりました。
グールドは水増し株で一時的にエリー鉄道の株価を吊り上げ、コーネリアスはそうと知らずに高値で大量の株を取得、勝利の女神はガウルドに微笑みました。
コーネリアスの損失は7百万ドルとも言われていますが、後にグールドはこのお金をコーネリアスに戻したそうです。
コーネリアスはそれまで望んだものすべてを手に入れてきましたので、この一件は屈辱的でした。
損失を被ったときに「スカンクは蹴るな」と言ったそうです。
実際にグールドにしてやられたのはこれ一度ではありませんでした。

その頃、世界恐慌がアメリカにも影響し始めましたが、そのさなかに彼はグランド・セントラル・ターミナルの建設をスタートしました。
この事業は不況で職をなくした多くの人々の生活を支えました。
ニューヨークセントラル社はこの不況下においても利益計上できた数少ない鉄道会社のひとつでした。

1877年1月4日
とても寒い日にコーネリアスは82年の生涯に幕を下ろしました。
彼の死を悼むかのように吹雪がグランドセントラル操車場のガラスの天井を割りました。

コーネリアスには敵ばかりで友人は一人もいませんでした。
子供でさえ、ウイリアム以外とは接点を持とうとしませんでした。
他の子供には自分の事業を引き継ぐ能力がないと判断したからです。

そんなエピソードから察するように彼は全く慈善家ではありませんでしたが、100万ドルをテネシー州のセントラル大学に寄付するよう遺書に記しました。
セントラル大学は後にヴァンダービルト大学に改名しました。

彼の遺産は1億ドル以上と言われましたが、そのほとんど(9500万ドル)は息子ウイリアムが相続しました。
(娘8人にはそれぞれ50万ドルしか分配されませんでした。)
彼の資産は2007年の貨幣価値に置き換えると1430億ドル(120円換算で17兆1600億円!)と言われております。
アメリカ史上2番目の資産家だそうです。

ウイリアムはコーネリアスの死後数年して西部電報会社の運営に携わりはじめました。
同じ頃、父のライバル "ジェイ・グールド" はアメリカン電報会社を創立。
西部電報会社を倒産に近いところまで追い込みました。
そしてウイリアムは計画的にアメリカン電報会社の買収を余儀なくされ、グールドは莫大な財を築きました。

以上です。

2007年12月15日

グランド・セントラル・ステーション その11

こちらにコーネリアス・ヴァンダービルトについてのまとめ編をアップロードしてありますのでどうぞ♪

前回のエントリーの続きです。

1849年、カリフォルニアはゴールドラッシュに沸きます。
コーネリアスは1851年に探鉱者向けにニカラグア共和国経由カリフォルニア行きの運航を開始しました。
ニューオリンズ発、船中泊にてニカラグア共和国へ、大西洋側から太平洋側へ陸上移動し、別の船に乗船、サンフランシスコへ北上しました。
これにより従来のパナマ地峡コースに比べ960kmの近道となり、料金を半額に設定しました。
このビジネスは大成功を収め、経営が苦しくなった競合会社は彼に1ヶ月5万ドルにて、この路線の運行停止契約を結びました。

1855年には豪華客船にも着手し、数年間フランス線を運航しました。

1844年、コーネリアスはロング・アイランド・レイルロード社の役員に選任されました。
当時ロング・アイランド・レイルロード社は蒸気船接続のニューヨーク・ボストン線を運行していました。

そして1857年、彼はニューヨーク・ハーレム鉄道の役員になりました。
そこでまたしてもダニエル・ドリューがライバルとなりました。
情勢はドリュー優勢でしたが、コーネリアスは海運業の資本を徐々に引き上げ、ニューヨーク・ハーレム鉄道、ハドソン・リバー鉄道、そしてニューヨーク・セントラル鉄道と次々に買収、会社の強化を重ね、1869年ニューヨーク・セントラル・ハドソン・リバー鉄道へと合併を果たしました。

1868年、妻のソフィアが死亡。
翌年コーネリアスはカナダでアラバマ在住、43歳年下のいとこと再婚します。

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余談ですがコーネリアスは鉄道事故に巻き込まれたことがありました。
1833年11月11日、カムデン&アンボイ社の汽車がニュージャージー州ハイツタウン近郊の牧草地で脱線事故を起こしました。
このアメリカ鉄道史上最も初期の鉄道事故のうちの1つにコーネリアスは巻き込まれました。
彼は肋骨を2本折り、それが肺に突き刺さったため全治1ヶ月の大怪我を負いました。
実はこの汽車には元大統領のジョン・クインシー・アダムスも乗車していて、彼は脱線した客車の1両前に乗っていたため無事でしたが、息子を亡くしました。

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続きは次回。

2007年12月14日

グランド・セントラル・ステーション その10

こちらにコーネリアス・ヴァンダービルトについてのまとめ編をアップロードしてありますのでどうぞ♪

前回エントリーの続きです。

そのうちにコーネリアスはニューヨークのフェリー運行を牛耳るまでになっていきました。
そして1813年、近くに住んでいたいとこのソフィアジョンソンと結婚、13人の子供に恵まれました。

1818年、彼は所持していた艦船を売り払い、トーマス・ギボンスが経営する蒸気船会社 "ギボンス・ライン社" に入社しました。
当時ニューヨーク議会は、ロバート・フルトンとロバート・リビングストンに蒸気船交通の30年の法的独占を与えましたが、コーネリアス(ギボンス・ライン社)は「ニュージャージー・マンハッタン線」(ニューヨークとフィラデルフィアの経済交流で重要)の運賃を勝手に安く販売し、大きな利益をあげました。

その間に、妻のソフィアはニュージャージーの停泊所近くに旅館・レストランを経営し、大成功。
こうしてヴァンダービルト家の財産はどんどん膨らんでいきました。

リビングストンとフルトンはヴァンダービルトを何とかして捕まえようとしますが、逃げられ、結局自分たちの蒸気船の操縦士として好条件で仕事をオファーしました。
彼は「私は自分の目標達成に重きを置いており、お金儲けはそれほど重要なことではない。」と答えたそうです。
彼にとっての目標とは法的独占体制の崩壊でした。

リビングストンとフルトンはギボンス・ライン社を告訴、最高裁まで争われたもの、結局彼らは独占権を失くしました。

コーネリアスは1829年までギボンスライン社に在籍し、商売のノウハウを学び、貯金をして独立。
ハドソン川で「アルバニー・ニューヨーク線」をスタートしました。

彼はまず運賃競争でダニエルドリュー社に打ち勝ち、ダニエルドリュー社を撤退に追い込みました。
すぐにヴァンダービルト・ライン社は、「ハドソン川の安価で快適な船舶」として世間から認められる存在になりました。
1940年代には彼の会社は100隻もの蒸気船を所有し、事業を拡大していきました。

競合会社はひとつにまとまり、ヴァンダービルトを追い出しにかかりました。

そして彼はロングアイランド(ニューヨーク州)・ボストン間の運行に打って出ます。
これは決して彼が負けを認めたのではなく、確実な前進でした。

彼は自らを「コモドール(提督)」と位置づけ、しばしば全身を海軍の軍服でまといました。

そして時代はゴールドラッシュを迎えます。
続きは次回。

2007年12月13日

グランド・セントラル・ステーション その9

こちらにコーネリアス・ヴァンダービルトについてのまとめ編をアップロードしてありますのでどうぞ♪

今回からグランドセントラルを建てた鉄道王 コーネリアス・ヴァンダービルト について、アメリカのサイトから情報をご案内します。

そこには壮大なアメリカンドリームがありそうです。
では、はじめましょう。

Cornelius Vanderbilt (May 27, 1794 - January 4, 1877)
出身 : ニューヨーク州スタテンアイランド

フェリー会社勤務の父と農婦の母の間に9人兄弟の4番目として生まれ、家庭が裕福ではなかったのでまともな教育を受けることなく育ちました。

彼の祖先 ジャン・アートソン はオランダのビルト村で農業に従事しておりましたが、1650年に年季奉公人としてニューヨークに移住しました。
ヴァンダービルトという苗字は、アートソンがアメリカ移民後につけたもので、 "ビルト村の" というオランダ語(van der bilt)を一語に短縮したものです。
後にヴァンダービルト家の多くの人はイギリス系アメリカ人となり、オリジナルのオランダの血を引く男子は コーネリアス の祖父である ヤコブ・ヴァンダービルト が最後となりました。

コーネリアスは16歳になるとニューヨークハーバーで貨物と人の運送を仕事にしました。
2年後の1812年戦争が始まり、彼は軍と契約し利権を手中にします。

続きは次回。

2007年12月12日

グランド・セントラル・ステーション その8

こちらに1902年の鉄道事故についてのまとめ編をアップロードしてありますのでどうぞ♪

さて、前回のエントリーで事故の状況がある程度わかる記事をご紹介しましたが、なるほどひどい事故だったんですね。

では早速続きをご紹介しましょう。

ヴァンダービルト氏締め出しを喰らう!

Cornelius Vanderbilt もトンネルに駆けつけましたが、警察は彼の立ち入りを許可しませんでした。
(Cornelius Vanderbilt はグランドセントラルを建てた鉄道王。ただし、創設者は1877年に亡くなっていますので、ここで登場するヴァンダービルト氏は跡継ぎと思われます。ヴァンダービルトファミリーのことを少し調べたら、すごく興味深そうでした!)

この事故原因は結局ウヤムヤにされてしまいました。
フランクリン警察本部長は "JMウイスコー" (衝突した側のホワイトプレーンズ発の列車の機関士)の責任と主張しました。追突された側の列車が停まったとき、旗手が後続車両に停車中を知らせるサイン(ライト)をセットしたことは明らかな事実だったからです。
通気孔から雪が降りこむ日のトンネル内には蒸気と煙が充満し、視界が悪くなる傾向はありました。
ウイスコー機関士とボイラーマン(石炭をボイラーにくべる人)フリン氏が逮捕されました。
旗手も拘留されましたが、後に釈放されています。

フランクリン警察本部長は次の声明文を発表しました。
「59丁目の信号は追突された側の列車によりSTOPを示しており、後続のウイスコー機関士がこれを無視したことが事故の原因である。ボイラーマンのフリン氏が停車を促したにもかかわらずです。停止の信号を見逃すということは進行OKの信号も同時に見逃していることとなり、もし視界が悪く信号が見えなかったのであれば慎重になってしかるべきだ。」

事故に遭遇した乗客のユージン氏はこのように語りました。

「私たちは後ろから2両目の客車に静かに座っていました。客車は1席か2席しか空いていないほど混み合っていました。私の車両、最後尾の車両にはともに数名の女性が乗車していました。
私たちは57丁目で少しの間停車していました。
事故は突然の出来事でした。
車両の電気はたちまち消え、真っ暗闇になりました。
鉄と木がぐしゃぐしゃになる音と大勢の悲鳴が聞こえました。
後部車両に目をやるとそこにはつぶれた客車と、なおも轟音を上げる機関車が一緒になっていました。

私は大きなゆれによって席を投げ出され、額から大量の出血を感じました。
息苦しい煙と蒸気が一面に立ち込めました。
傷だらけになりながらも必死に抜け出そうとする人がたくさん見えました。

そのとき突っ込んできた機関車が発火しました。
もう逃げることしか思いつきませんでした。
私はすぐ右側に自分の友人をみつけました。
彼は「コンチキチョウ!開きやがれ!」と泣きわめきながら窓を開けようとしていました。
私も窓のほうへ向き直りましたが、窓ガラスは事故の衝撃ですべて割れていました。

私たちは何とか抜け出しました。
途中血だらけながら自力で抜け出そうとする人が数名いました。」

以上です。
m(_ _)m

2007年12月11日

グランド・セントラル・ステーション その7

こちらに1902年の鉄道事故についてのまとめ編をアップロードしてありますのでどうぞ♪

さて、前回予告しましたようにニューヨークで1902年に起きた事故とはどのようなものだったのでしょうか?
これがきっかけで蒸気機関車の乗り入れを禁止してしまったくらいですから気になります。

では、調べた結果をご紹介いたします。

1902年1月8日のことでした。
ラッシュアワー真っ只中の8:17am、グランドセントラル手前のトンネル出口付近でハートフォード発ニューヨーク行きの列車が信号停車中に、後ろから来たホワイトプレーンズ発の列車が突っ込みました。
ホワイトプレーンズ発の列車は、停止していた列車の最後部車両を押しつぶし、なおも列車半分ほどの距離を押し進め、後部車両と機関車が横並びの状態で停車しました。

押しつぶされ、かたまりと化した鉄の残骸や、壊れた機関車のシリンダーやパイプからヒューヒューと音を発して吹き出る高温の蒸気が人々を苦しめました。
衝突の衝撃により列車は停電し、トンネル内は暗闇に包まれました。
幸いにも逃げ出すことができた人たちに救助を求める怪我人たちのわめき声が暗闇と鉄の残骸の中から聞こえていました。
勇気ある人々の救出劇が始まりました。
ニューヨーク中の救急車が集められ、5つの地区の警察官とマンハッタン東セントラル地区の消防士が集結しました。
警察官、消防士、外科医に加え、内科医、聖職者のボランティアによる救済が始まりました。

トンネル通気孔からハシゴが下ろされ、ロープと斧を持った警察官、消防士が突入しました。
無事だった乗客たちも残骸をどけるなど人命救助にあたりました。
スミス神父とウオークレイ博士(消防署の従軍牧師)は死に逝く人々に仕えました。
消防士のクラーク氏は二人の女性を救出するため手足に大やけどを負い、乗客だったマーフィー氏は自分の両足が骨折しているにもかかわらず残骸の撤去作業を手伝うなど決死の救出劇が進行する中、あと少しで救出されるところで命を落とす人もいました。
ウオークレイ博士は痛みに耐えられない人たちに覚せい剤を配りました。

すぐに治療が必要な重症者は救急隊と外科医が仮手当てを行い、地上に引き上げられました。
重症患者はすぐに病院に搬送され、パークアヴェニュー沿いのたくさんの建物が怪我人のために開放されました。
死体は安置所と警察署に運ばれました。

雪の中数え切れないほどの人が成り行きを見守りました。

今回はこの辺で...
次回へ続く。

2007年12月10日

グランド・セントラル・ステーション その6

こちらに1902年の鉄道事故についてのまとめ編をアップロードしてありますのでどうぞ♪

前回のエントリーでグランドセントラルについての英文を和訳させていただきましたが、その文章がサラっとしたもので大きな流れしかわからず、多分アメリカで生まれ育った人たちにはそこそこ知られていることなんかはザックリ書いたんじゃないか?と逆にそのザックリの裏側に興味が沸いてしまって、あれこれ調べてみました。

すると、もうちょっと詳しい当時の状況や、一人の切れ者エンジニアの功績が書かれた記事を見つけましたので、今回はそれをご紹介します。

では、いってみましょう!
...って、勝手に熱くなってすみません。
m(_ _)m

元々のグランドセントラル駅の操車場は43丁目から49丁目の6ブロック分となっており、5番街の49丁目以北は4車線が平行に走っていました。
1871年操車場が完成したとき、すぐに問題が発生しました。
毎日104本の汽車がグランドセントラルに乗り入れるため何十もの切り替えトラックが備えられ、すべてが人が歩く通りと同じ地上に設置、運行されていました。
蒸気機関車、客車、線路の複雑なもつれ具合は、歩行者に大きな危険となって立ちはだかりました。
ラッシュ時には3分に1本もの割合で蒸気機関車が地上を往来しました。

汽車はうるさく、汚れていて、何より危険でした。
そしてニューヨーク市があれこれと対策を打つも、問題は悪化するばかりでした。
結局、1875年にグランドセントラルは4番街の地下に線路を移設することに同意しました。
49丁目から56丁目にかけて、4本の線路はオープンカット方式(地下に線路を敷くものの天井は作らない)で、街を横切るための橋がその上にかけられました。
56丁目から96丁目にかけては線路は覆いかぶされ、蒸気機関車が吐く煙を逃がすベンチレータが設置されていました。(Vanderbilt氏はこの対策に市が工事費6百万ドルの半分を負担することに同意するまで動きませんでした。)

しかしその通気孔は気休めにしかなりませんでした。
トンネルの中は煙たく、暑く、汚く、特に朝のラッシュ時は最悪でした。
よって、パークアヴェニュートンネルの通気孔は灰を撒き散らす煙突と化しました。
ニューヨーク史上最悪の列車事故である1902年の事故が起こる頃には、ニューヨーク州、ニューヨーク市の両者がこの問題にはうんざりしていました。
そして、事故をきっかけにハーレムリバー以南への蒸気機関車の乗り入れを禁止してしまったのです。

当時鉄道局のチーフエンジニアだったウイリアム・ウイルガス氏が壮大な計画の青写真を描き出したのはその頃でした。
彼の計画はニューヨークセントラル社(現在のニューヨークセントラルラインズ)が所有した土地の約20万平米の掘り起こしを必要としました。そして、地下13~18メートルの深さに線路を埋め込もうというものでした。
列車の需要が高まるにつれ、ウイルガス氏は二つのターミナルを二層構造で建設する計画に膨らませていきました。
下の階層~マンハッタンの地盤である岩部分にまで達する~は通勤客などが利用する短距離線を、その上には長距離線を配置しようというものでした。
その壮大な計画はマンハッタンのミッドタウンとパークアヴェニューの再開発を意味し、ウイルガス氏の見積もりによるとニューヨークセントラル社は4千万ドルの資金を必要としました。
4千万ドルはニューヨークセントラル社の半年分の収益に匹敵しました。
(実際には2年の間にコストは7千万ドルに膨れ上がりました)

想定外の大金を支払うためにウイルガス氏はパークアヴェニューの道路舗装が完了した後にターミナル一帯の空間所有権の長期リースを提案しました。
これにより、リース契約をした開発業者はビルを建設することができました。
ウイルガス氏はこれを「空からの恵み」といい、グランドセントラルに必要な経費をグランドセントラルがまかなうことに成功しました。

以上です。

パークアヴェニューが他に比べて道幅が広いこと、グランドセントラル以北のパークアヴェニュー沿いの建物の高さが均衡しているのにはちゃんと理由があったのですね。
今更ながらひとつスッキリしました。(笑)

ところで、1902年の事故とはどのようなものだったのでしょうか?
次回そこをもう少し掘り下げてみようと思います。

2007年12月 9日

グランド・セントラル・ステーション その5

こちらにまとめ編をアップロードしてありますので、どうぞ♪

連続で書いてきましたグランドセントラルですが、今回でとりあえずおしまいです。

今回はアメリカのウエブサイト "About.com" のグランドセントラルのページを和訳させていただき、歴史的なことなど勉強してみようと思います。

ニューヨークの歴史的ランドマーク:グランドセントラルターミナル
グランドセントラルターミナル(ニューヨーカーにさえグランドセントラルステーションと言われたりしますが、それは地下鉄の駅の名称です)は、ニューヨーク市の最も有名なランドマークのひとつです。週末に友人たちを伴ってコネティカットへ行ったり、たくさんのニューヨーカーが一度は利用したことがあるでしょう。
ですが、グランドセントラルの歴史や秘密はあまり知られていません。

はじまり
最初のグランドセントラルターミナルは1871年に海運王、鉄道王の "Cornelius Vanderbilt" によって建てられました。ところが1902年に17人死亡、38人負傷の大事故がきっかけで蒸気機関車が禁止され、数ヶ月後に、既存の駅を破壊して、電車のために新しいターミナルを造ことが計画されました。
新しいグランドセントラルターミナルは正式には1913年2月2日に完成、当日150,000人の人々が訪れました。
美術的美しさの駅舎は、大きな大理石の階段、23メートル弱もある窓、星座をあしらった天井などですぐに評判になりました。

全盛期
ホテル、オフィスビルなどの超高層ビル(77階建てのクライスラービルも含まれます)がすぐに駅舎のまわりに建ち並びました。それによってグランドセントラルターミナルは全米で最も利用客の多い駅となり、1947年にはのべ6,500万人以上が利用しました。(これは当時の人口の40%にあたります)

苦難のとき
1950年代には長距離列車の旅の時代は終わりを迎えました。
戦後のアメリカでは飛行機や自動車を利用するケースが増えたのです。
同時にマンハッタンの不動産価値は高騰し、鉄道業による利益が減退したことから、鉄道局はグランドセントラルターミナルをオフィスビルに建てかえる計画を起こしました。
ところが1967年にランドマーク保存委員会が介入し、その計画を一時的に取りやめるよう法律的保護を訴えました。
グランドセントラルターミナルのオーナーであるペンセントラル社も鉄道局の計画には反対で、駅舎の上に55階建ての高層ビルを建設する(駅舎の一部を壊すことになるが...)ことを和解案として提案しました。
結局ランドマーク保存委員会はプロジェクトを阻止すべく、ペンセントラル社にニューヨーク市に対する800万ドルの訴訟を起こさせました。
この法廷闘争は、ほぼ10年の間続きました。
ジャクリーン・ケネディ・オナシスを含む保存賛成派市民とリーダーのおかげで、再開発計画はなくなりました。(訴訟が最高裁判所までいったあとのことですが)

新しいはじまり
1994年に、メトロノース社がグランドセントラル駅の運営を引き継ぎ、大がかりな改装を開始しました。
そして1913年当時の輝かしさを取り戻しつつ、グランドセントラルターミナルは愛されるランドマーク、通勤者たちのハブ駅となり、5軒のレストラン、カクテルラウンジ、ダイニングコンコース、その他50ものテナントショップを擁する施設になりました。
グランドセントラルは近代都市の真ん中で、古き佳き時代のニューヨークを維持しています。

もっと知りたいあなたに
グランドセントラルターミナルの建築、歴史に興味がありましたら、公共のアート団体による無料ウオーキングツアーがあります。
ツアーは毎週水曜日12:30pmにメインインフォーメーション前集合です。

ということです。

なんだかサラッとしすぎてて、この記事ではわからないことがあり、もうちょっと調べてみましたので、今回でおしまいの予定でしたが、延長して次回のエントリーで別の記事をご紹介します。

2007年12月 8日

グランド・セントラル・ステーション その4

こちらにまとめ編をアップロードしてありますので、どうぞ♪

34丁目あたりからアップタウン方面へタクシーを利用するとき、ドライバーがパークアヴェニューを使うと内心喜んでおりました。

グランドセントラル駅のところでちょっとしたアドベンチャーが待っているからです。

実はグランドセントラルの駅舎はパークアヴェニューの真上に建てられていて、パークアヴェニューを北上していくと42丁目で駅舎によって行き止まり状態となっています。

また、メットライフビル(旧パンナムビル)もグランドセントラルにくっついているのか、並んで建っているのか...よくわかんないですけど、まあ大きな目で見れば一緒になっていて、アップタウンからパーアヴェニューを南下してくると、このメットライフビルにぶち当たります。

じゃあ本当にぶち当たるのかといいますと、「アドベンチャーが待っている」と書きましたようにサプライズが待っています。
グランド・セントラル・ステーション その1」の画像をご覧いただきますと、緑色の橋がかかっていますよね。
パークアヴェニューを北上してきた自動車はこの緑色の橋を上り、右折、駅舎のテラスっぽいところを通り左折、建物に設けられたトンネルを抜けます。

トンネルを抜けてきたところがこうなっています。

メットライフビル&パークアヴェニュー

つまり、アップタウンからパークアヴェニューを南下してきた場合は、ここからワンダーランドが始まり、緑の橋で終わります。

メットライフビル(旧パンナムビル)の写真がやたらインパクトがあって、ニューヨークの代表的風景としてやたら目にするのは、特徴的な八角形のプロポーションに加え、通りをさえぎる立地条件もあったわけです。
ずらっと通りに沿って並んでいるビルのひとつだったら、さほど目を引くものではなかったかもしれませんね。

2007年12月 7日

グランド・セントラル・ステーション その3

こちらにまとめ編をアップロードしてありますので、どうぞ♪

初めてグランドセントラルに行ったとき、目を疑うものがありました。

「オイスターバー」です。
正式な名称は "Grand Central Oyster Bar & Restaurant" です。
そうです。海鮮レストランです。

グランドセントラルのホールはきれいですが、お世辞にも空気が澄んでいるとは言いがたく...むしろ冬に訪れるとウイルスの巣じゃないか?と疑いたくなるような目に見えない匂いがあります。

なぜ、そんなところで海鮮レストランなのか...
しかもお腹をこわしたときの最有力容疑者である牡蠣を冠にしたのか...
謎は深まるばかりです。

後日このレストランに行き、牡蠣以外の海鮮料理を食べました。
味は普通で、値段は安いかも?と思った記憶があります。
電車に乗り遅れた人や、出発までの時間潰し、待ち合わせ...そんな人たちに利用されるのでしょう、きっと。

結構広いスペースは時代を感じさせる装飾が施され、私的には「ゴッドファーザーかよ!」とツッコミを入れたくなる雰囲気です。

そして、なんとなんと...
2004年3月3日ニューヨーク本店に続く第2号店として、アトレ品川にオープンしたそうで、ニューヨークの本店同様のインテリアを再現...
ということは、ゴッドファーザーな店内になってるってことですよね!?

もしかして首都圏では常識だったでしょうか...

グランドセントラルオイスターバー&レストラン

2007年12月 6日

グランド・セントラル・ステーション その2

こちらにまとめ編をアップロードしてありますので、どうぞ♪

グランドセントラルのホールはきれいです。

グランドセントラルステーションのホール

天井には星座イメージが描かれ...
この時計、好きでした。

グランドセントラルステーションのホールにある時計

ところで、この時計...
すでに見えている2面で時刻が違っちゃいませんか?

ということは、グランドセントラル駅の時計は全部ばらばらなの?と思いますよね。
駅で時刻はとても大切なもの...それの信用性が問われるようではどうなのよ?ってことで、調べてみました。

私の余計な心配をよそに2004年8月から、グランドセントラル駅のすべての時計がいわゆる電波時計になっているそうです。
私が滞在していた頃を含めそれ以前は、毎日午前3時にマスター時計がコロラド州の原子時計から短波で正確な時刻を受信し、駅構内20以上の時計を正確な時刻にセットしていたそうです。

一応配慮がなされていたのですね。

でも、マスター時計と端末時計の接続装置の故障や個々の時計モーターの老朽化などにより、表示時刻のずれが生じていたこと、そして時刻表、ビデオ表示時計などマスター時計に依存しない別システムで稼動する時計もあったことから時計の表示時刻は統一されていなかったそうです。

ん~っ... アメリカらしいというか、時代を感じますね。

これを改善するため、毎秒、衛星経由で、コロラドの原子時計から誤差10億分の1秒の正確さで正しい時刻を受信する新マスター時計を2004年8月に導入し、そして!(ここが重要ですよね)駅構内すべての時計をこのマスター時計に統制させました。
さらに接続装置も電子的に改善されて駅構内すべての時計が正確な時刻を表示するようになったそうです。

それにより、グランドセントラル駅誕生91年目にして、初めてすべての時計の時刻が統一されたそうです。
ところで、日本の駅はどうなっているんでしょうね。

2007年12月 5日

グランド・セントラル・ステーション その1

こちらにまとめ編をアップロードしてありますので、どうぞ♪

マンハッタンに住んでいる人にとってはあまり馴染みのないグランドセントラル駅ですが、色んな映画に出てきますので、観光客を含め駅そのものを見に行く人も多いことと思います。

ニューヨークのグランドセントラルステーション外観

私もその一人でした。
私の場合は「グランドセントラル=恋におちて」です。
アメリカではメリルストリープは性格俳優扱いで、美人とはいえないけど...といった感じなのですが、私は「恋におちて」のメリルストリープは美しい!と思います。

冷静にDVDのジャケットなどを見てみるとそうでもないかな...と思っちゃったりしますが、本編を見るとやっぱり美人なんですよねぇ。
これを "はまり役" というんでしょうね。

今回から数回に分けてグランドセントラルのことを書かせていただきます。