2008年2月 1日

グランド・セントラル・ステーション まとめ編

数回にわけて書いた記事ですが、ここでまとめておきます。
一部修正しております。

マンハッタンに住んでいる人にとってはあまり馴染みのないグランドセントラル駅ですが、色んな映画に出てきますので、観光客を含め駅そのものを見に行く人も多いことと思います。

ニューヨークのグランドセントラルステーション外観

私もその一人でした。
私の場合は「グランドセントラル=恋におちて」です。
アメリカではメリルストリープは性格俳優扱いで、美人とはいえないけど...といった感じなのですが、私は「恋におちて」のメリルストリープは美しい!と思います。

冷静にDVDのジャケットなどを見てみるとそうでもないかな...と思っちゃったりしますが、映画本編を見るとやっぱり美人なんですよねぇ。
これを "はまり役" というんでしょうね。

さて、きれいといえば...グランドセントラルのホールはきれいです。

グランドセントラルステーションのホール

天井には星座イメージが描かれ...
この時計、好きでした。

グランドセントラルステーションのホールにある時計

ところで、この時計...
すでに見えている2面で時刻が違っちゃいませんか?

ということは、グランドセントラル駅の時計は全部ばらばらなの?と思いますよね。
駅で時刻はとても大切なもの...それの信用性が問われるようではどうなのよ?ってことで、調べてみました。

私の余計な心配をよそに2004年8月から、グランドセントラル駅のすべての時計がいわゆる電波時計になっているそうです。
私が滞在していた頃を含めそれ以前は、毎日午前3時にマスター時計がコロラド州の原子時計から短波で正確な時刻を受信し、駅構内20以上の時計を正確な時刻にセットしていたそうです。

一応配慮がなされていたのですね。

でも、マスター時計と端末時計の接続装置の故障や個々の時計モーターの老朽化などにより、表示時刻のずれが生じていたこと、そして時刻表、ビデオ表示時計などマスター時計に依存しない別システムで稼動する時計もあったことから時計の表示時刻は統一されていなかったそうです。

ん~っ... アメリカらしいというか、時代を感じますね。

これを改善するため、毎秒、衛星経由で、コロラドの原子時計から誤差10億分の1秒の正確さで正しい時刻を受信する新マスター時計を2004年8月に導入し、そして!(ここが重要ですよね)駅構内すべての時計をこのマスター時計に統制させました。
さらに接続装置も電子的に改善されて駅構内すべての時計が正確な時刻を表示するようになったそうです。

それにより、グランドセントラル駅誕生91年目にして、初めてすべての時計の時刻が統一されたそうです。
ところで、日本の駅はどうなっているんでしょうね。

話かわって...
初めてグランドセントラルに行ったとき、目を疑うものがありました。

「オイスターバー」です。
正式な名称は "Grand Central Oyster Bar & Restaurant" です。
そうです。海鮮レストランです。

グランドセントラルのホールはきれいですが、お世辞にも空気が澄んでいるとは言いがたく...むしろ冬に訪れるとウイルスの巣じゃないか?と疑いたくなるような目に見えない匂いがあります。

なぜ、そんなところで海鮮レストランなのか...
しかもお腹をこわしたときの最有力容疑者である牡蠣を冠にしたのか...
謎は深まるばかりです。

後日このレストランに行き、牡蠣以外の海鮮料理を食べました。
味は普通で、値段は安いかも?と思った記憶があります。
電車に乗り遅れた人や、出発までの時間潰し、待ち合わせ...そんな人たちに利用されるのでしょう、きっと。

結構広いスペースは時代を感じさせる装飾が施され、私的には「ゴッドファーザーかよ!」とツッコミを入れたくなる雰囲気です。

そして、なんとなんと...
2004年3月3日ニューヨーク本店に続く第2号店として、アトレ品川にオープンしたそうで、ニューヨークの本店同様のインテリアを再現...
ということは、ゴッドファーザーな店内になってるってことですよね!?

もしかして首都圏では常識だったでしょうか...

グランドセントラルオイスターバー&レストラン

また、話かわりまして...
34丁目あたりからアップタウン方面へタクシーを利用するとき、ドライバーがパークアヴェニューを使うと内心喜んでおりました。

グランドセントラル駅のところでちょっとしたアドベンチャーが待っているからです。

実はグランドセントラルの駅舎はパークアヴェニューの真上に建てられていて、パークアヴェニューを北上していくと42丁目で駅舎によって行き止まり状態となっています。

また、メットライフビル(旧パンナムビル)もグランドセントラルにくっついているのか、並んで建っているのか...よくわかんないですけど、まあ大きな目で見れば一緒になっていて、アップタウンからパーアヴェニューを南下してくると、このメットライフビルにぶち当たります。

じゃあ本当にぶち当たるのかといいますと、「アドベンチャーが待っている」と書きましたようにサプライズが待っています。
一番上の駅舎外観写真をご覧いただきますと、緑色の橋がかかっていますよね。
パークアヴェニューを北上してきた自動車はこの緑色の橋を上り、右折、駅舎のテラスっぽいところを通り左折、建物に設けられたトンネルを抜けます。

トンネルを抜けてきたところがこうなっています。

メットライフビル&パークアヴェニュー

つまり、アップタウンからパークアヴェニューを南下してきた場合は、ここからワンダーランドが始まり、緑の橋で終わります。

メットライフビル(旧パンナムビル)の写真がやたらインパクトがあって、ニューヨークの代表的風景としてやたら目にするのは、特徴的な八角形のプロポーションに加え、通りをさえぎる立地条件もあったわけです。
ずらっと通りに沿って並んでいるビルのひとつだったら、さほど目を引くものではなかったかもしれませんね。

それでは、ここからはアメリカのウエブサイト "About.com" のグランドセントラルのページを和訳させていただき、歴史的なことなど勉強してみようと思います。

ニューヨークの歴史的ランドマーク:グランドセントラルターミナル
グランドセントラルターミナル(ニューヨーカーにさえグランドセントラルステーションと言われたりしますが、それは地下鉄の駅の名称です)は、ニューヨーク市の最も有名なランドマークのひとつです。週末に友人たちを伴ってコネティカットへ行ったり、たくさんのニューヨーカーが一度は利用したことがあるでしょう。
ですが、グランドセントラルの歴史や秘密はあまり知られていません。

はじまり
最初のグランドセントラルターミナルは1871年に海運王、鉄道王の "コーネリアス・ヴァンダービルト" によって建てられました。ところが1902年に17人死亡、38人負傷の大事故がきっかけで蒸気機関車が禁止され、数ヶ月後に、既存の駅を破壊して、電車のために新しいターミナルを造ことが計画されました。
新しいグランドセントラルターミナルは正式には1913年2月2日に完成、当日150,000人の人々が訪れました。
美術的美しさの駅舎は、大きな大理石の階段、23メートル弱もある窓、星座をあしらった天井などですぐに評判になりました。

全盛期
ホテル、オフィスビルなどの超高層ビル(77階建てのクライスラービルも含まれます)がすぐに駅舎のまわりに建ち並びました。それによってグランドセントラルターミナルは全米で最も利用客の多い駅となり、1947年には年間のべ6,500万人以上が利用しました。(これは当時の人口の40%にあたります)

苦難のとき
1950年代には長距離列車の旅の時代は終わりを迎えました。
戦後のアメリカでは飛行機や自動車を利用するケースが増えたのです。
同時にマンハッタンの不動産価値は高騰し、鉄道業による利益が減退したことから、鉄道局はグランドセントラルターミナルをオフィスビルに建てかえる計画を起こしました。
ところが1967年にランドマーク保存委員会が介入し、その計画を一時的に取りやめるよう法律的保護を訴えました。
グランドセントラルターミナルのオーナーであるペンセントラル社も鉄道局の計画には反対で、駅舎の上に55階建ての高層ビルを建設する(駅舎の一部を壊すことになるが...)ことを和解案として提案しました。
結局ランドマーク保存委員会はプロジェクトを阻止すべく、ペンセントラル社にニューヨーク市に対する800万ドルの訴訟を起こさせました。
この法廷闘争は、ほぼ10年の間続きました。
ジャクリーン・ケネディ・オナシスを含む保存賛成派市民とリーダーのおかげで、再開発計画はなくなりました。(訴訟が最高裁判所までいったあとのことですが)

新しいはじまり
1994年に、メトロノース社がグランドセントラル駅の運営を引き継ぎ、大がかりな改装を開始しました。
そして1913年当時の輝かしさを取り戻しつつ、グランドセントラルターミナルは愛されるランドマーク、通勤者たちのハブ駅となり、5軒のレストラン、カクテルラウンジ、ダイニングコンコース、その他50ものテナントショップを擁する施設になりました。
グランドセントラルは近代都市の真ん中で、古き佳き時代のニューヨークを維持しています。

もっと知りたいあなたに
グランドセントラルターミナルの建築、歴史に興味がありましたら、公共のアート団体による無料ウオーキングツアーがあります。
ツアーは毎週水曜日12:30pmにメインインフォーメーション前集合です。

ということです。

コーネリアス・ヴァンダービルトと1902年の鉄道事故についてはこちらに詳しい記事をアップロードしていますので、よろしかったらどうぞ♪

コーネリアス・ヴァンダービルトについて まとめ編
1902年ニューヨークの列車事故 まとめ編

2008年1月 3日

Macy'sの木製エスカレーター

私が渡米後最初に行ったデパートはメイシーズでした。
事前に調べて知っていたわけではなく、到着後に日本から持っていったガイドブックを見て決めました。

ニューヨークのメイシーズ

「ニューヨーク最大級のデパート」といった謳い文句だったと思います。
ワンブロックまるごとメイシーズなのです。
ニューヨークを訪れたことがない方にはイメージしにくいと思いますので、簡単に説明します。

ニューヨーク(ロワーマンハッタンと呼ばれる南端部は除く)は南北に走る「アヴェニュー(街)」と東西に走る「ストリート(丁目)」という道路により、碁盤の目のようになっています。
メイシーズは6番街と7番街、34丁目と35丁目に囲まれた一区画(ブロック)まるまるなわけです。
外から見てもその大きさにはあまりピンときませんが...
どのみち建物は隙間なくビッシリ建ってますから、1ブロックの中にいくつビルがあっても地上を歩いている限りはひとつの大きなカタマリですので。

ところで、その大きさですが...
今でも百貨店の単独店舗で198,500 m² の売場面積は世界最大だそうです。
198,500 m² といってもさっぱり想像がつきませんが、一辺445mの正方形に相当すると考えるとデカイですね。
もちろん平屋ではないので、敷地面積はもっと小さいです。

話を戻しまして...

バブル真っ只中の日本から、不況のどん底のニューヨークへ行き、メイシーズに感動するわけがないのですが、行ったことのない私にはもちろんそんなこと想像もつきません。
案の定、「何だよ、こんなものか!」がファーストインプレッションとなりました。

もちろんデパートですし、しっかりした商品を販売しているわけですが、客層がサックスフィフスアヴェニューあたりとは違うので、どちらかというと館内の雰囲気、入っているブランドは地味な印象でした。

唯一感動したのは「木のエスカレーター」です。
一部のエスカレーターが昔ながらの木製のまま残されています。
ガタゴトと音を立てながら動く木製エスカレーターは、なんだかおもちゃのようで、意味なくフロアを上下したくなります。
機会がありましたら是非2往復楽しんでみてください。(笑)

大きさに関しましては、中に入ってしまうと良くわかりませんでした。
富士山も登ってしまえばただの山...といいますが、そんなようなものです。

でも、今思い起こせば良いデパートでした。
当時の私がその魅力を理解できなかっただけで、今行ったら全然印象が違うと思います。
そして木製エレベータを2往復...(笑)

2007年12月16日

グランド・セントラル・ステーション その12

こちらにコーネリアス・ヴァンダービルトについてのまとめ編をアップロードしてありますのでどうぞ♪

前回のエントリーの続きです。

1871年、コーネリアスはニューヨーク・アンド・ニューヘイヴン鉄道と業務提携し、2社が共に乗り入れる操車場を東42丁目に建設することになりました。
これがグランド・セントラル・ターミナルの前身です。

1873年、ニューヨーク・シカゴを鉄道で結びました。
そしてコーネリアスはエリー鉄道を傘下に治めようとし、それが彼の最大のライバルとなる "ジェイ・グールド" (当時のエリー鉄道の役員)との対立のはじまりとなりました。
グールドは水増し株で一時的にエリー鉄道の株価を吊り上げ、コーネリアスはそうと知らずに高値で大量の株を取得、勝利の女神はガウルドに微笑みました。
コーネリアスの損失は7百万ドルとも言われていますが、後にグールドはこのお金をコーネリアスに戻したそうです。
コーネリアスはそれまで望んだものすべてを手に入れてきましたので、この一件は屈辱的でした。
損失を被ったときに「スカンクは蹴るな」と言ったそうです。
実際にグールドにしてやられたのはこれ一度ではありませんでした。

その頃、世界恐慌がアメリカにも影響し始めましたが、そのさなかに彼はグランド・セントラル・ターミナルの建設をスタートしました。
この事業は不況で職をなくした多くの人々の生活を支えました。
ニューヨークセントラル社はこの不況下においても利益計上できた数少ない鉄道会社のひとつでした。

1877年1月4日
とても寒い日にコーネリアスは82年の生涯に幕を下ろしました。
彼の死を悼むかのように吹雪がグランドセントラル操車場のガラスの天井を割りました。

コーネリアスには敵ばかりで友人は一人もいませんでした。
子供でさえ、ウイリアム以外とは接点を持とうとしませんでした。
他の子供には自分の事業を引き継ぐ能力がないと判断したからです。

そんなエピソードから察するように彼は全く慈善家ではありませんでしたが、100万ドルをテネシー州のセントラル大学に寄付するよう遺書に記しました。
セントラル大学は後にヴァンダービルト大学に改名しました。

彼の遺産は1億ドル以上と言われましたが、そのほとんど(9500万ドル)は息子ウイリアムが相続しました。
(娘8人にはそれぞれ50万ドルしか分配されませんでした。)
彼の資産は2007年の貨幣価値に置き換えると1430億ドル(120円換算で17兆1600億円!)と言われております。
アメリカ史上2番目の資産家だそうです。

ウイリアムはコーネリアスの死後数年して西部電報会社の運営に携わりはじめました。
同じ頃、父のライバル "ジェイ・グールド" はアメリカン電報会社を創立。
西部電報会社を倒産に近いところまで追い込みました。
そしてウイリアムは計画的にアメリカン電報会社の買収を余儀なくされ、グールドは莫大な財を築きました。

以上です。

2007年12月15日

グランド・セントラル・ステーション その11

こちらにコーネリアス・ヴァンダービルトについてのまとめ編をアップロードしてありますのでどうぞ♪

前回のエントリーの続きです。

1849年、カリフォルニアはゴールドラッシュに沸きます。
コーネリアスは1851年に探鉱者向けにニカラグア共和国経由カリフォルニア行きの運航を開始しました。
ニューオリンズ発、船中泊にてニカラグア共和国へ、大西洋側から太平洋側へ陸上移動し、別の船に乗船、サンフランシスコへ北上しました。
これにより従来のパナマ地峡コースに比べ960kmの近道となり、料金を半額に設定しました。
このビジネスは大成功を収め、経営が苦しくなった競合会社は彼に1ヶ月5万ドルにて、この路線の運行停止契約を結びました。

1855年には豪華客船にも着手し、数年間フランス線を運航しました。

1844年、コーネリアスはロング・アイランド・レイルロード社の役員に選任されました。
当時ロング・アイランド・レイルロード社は蒸気船接続のニューヨーク・ボストン線を運行していました。

そして1857年、彼はニューヨーク・ハーレム鉄道の役員になりました。
そこでまたしてもダニエル・ドリューがライバルとなりました。
情勢はドリュー優勢でしたが、コーネリアスは海運業の資本を徐々に引き上げ、ニューヨーク・ハーレム鉄道、ハドソン・リバー鉄道、そしてニューヨーク・セントラル鉄道と次々に買収、会社の強化を重ね、1869年ニューヨーク・セントラル・ハドソン・リバー鉄道へと合併を果たしました。

1868年、妻のソフィアが死亡。
翌年コーネリアスはカナダでアラバマ在住、43歳年下のいとこと再婚します。

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余談ですがコーネリアスは鉄道事故に巻き込まれたことがありました。
1833年11月11日、カムデン&アンボイ社の汽車がニュージャージー州ハイツタウン近郊の牧草地で脱線事故を起こしました。
このアメリカ鉄道史上最も初期の鉄道事故のうちの1つにコーネリアスは巻き込まれました。
彼は肋骨を2本折り、それが肺に突き刺さったため全治1ヶ月の大怪我を負いました。
実はこの汽車には元大統領のジョン・クインシー・アダムスも乗車していて、彼は脱線した客車の1両前に乗っていたため無事でしたが、息子を亡くしました。

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続きは次回。

2007年12月14日

グランド・セントラル・ステーション その10

こちらにコーネリアス・ヴァンダービルトについてのまとめ編をアップロードしてありますのでどうぞ♪

前回エントリーの続きです。

そのうちにコーネリアスはニューヨークのフェリー運行を牛耳るまでになっていきました。
そして1813年、近くに住んでいたいとこのソフィアジョンソンと結婚、13人の子供に恵まれました。

1818年、彼は所持していた艦船を売り払い、トーマス・ギボンスが経営する蒸気船会社 "ギボンス・ライン社" に入社しました。
当時ニューヨーク議会は、ロバート・フルトンとロバート・リビングストンに蒸気船交通の30年の法的独占を与えましたが、コーネリアス(ギボンス・ライン社)は「ニュージャージー・マンハッタン線」(ニューヨークとフィラデルフィアの経済交流で重要)の運賃を勝手に安く販売し、大きな利益をあげました。

その間に、妻のソフィアはニュージャージーの停泊所近くに旅館・レストランを経営し、大成功。
こうしてヴァンダービルト家の財産はどんどん膨らんでいきました。

リビングストンとフルトンはヴァンダービルトを何とかして捕まえようとしますが、逃げられ、結局自分たちの蒸気船の操縦士として好条件で仕事をオファーしました。
彼は「私は自分の目標達成に重きを置いており、お金儲けはそれほど重要なことではない。」と答えたそうです。
彼にとっての目標とは法的独占体制の崩壊でした。

リビングストンとフルトンはギボンス・ライン社を告訴、最高裁まで争われたもの、結局彼らは独占権を失くしました。

コーネリアスは1829年までギボンスライン社に在籍し、商売のノウハウを学び、貯金をして独立。
ハドソン川で「アルバニー・ニューヨーク線」をスタートしました。

彼はまず運賃競争でダニエルドリュー社に打ち勝ち、ダニエルドリュー社を撤退に追い込みました。
すぐにヴァンダービルト・ライン社は、「ハドソン川の安価で快適な船舶」として世間から認められる存在になりました。
1940年代には彼の会社は100隻もの蒸気船を所有し、事業を拡大していきました。

競合会社はひとつにまとまり、ヴァンダービルトを追い出しにかかりました。

そして彼はロングアイランド(ニューヨーク州)・ボストン間の運行に打って出ます。
これは決して彼が負けを認めたのではなく、確実な前進でした。

彼は自らを「コモドール(提督)」と位置づけ、しばしば全身を海軍の軍服でまといました。

そして時代はゴールドラッシュを迎えます。
続きは次回。