2008年1月31日

英語キャラな自分 まとめ編

数回にわけて書いた記事ですが、ここでまとめておきます。
意味不明な内容が多かったのでかなり修正しております。

英語力が伸びるにしたがって、英語で聞いて英語で答えるようになります。

日本で暮らしている日本人でも、外国人に「ハロー!」と言われれば即座に「ハロー!」と返す。
これが普通ではないでしょうか?

そんな感じで徐々に日常の会話が成立するようになっていきます。

海外生活で習得する英語は、単語を覚えるというよりフレーズで覚えていく感覚で、そのフレーズを「こういう場面で使う」と "身につけていく" のです。

会話の中で「A」と言われたことに対して「B」と答え、たまたまそれがウケルと次回も「A」と言われると「B」と返すようになります。
また、映画やドラマを見ていて気に入ったフレーズは蓄えていきます。

それと平行して私のような根がバーテンな男(笑)の場合、アメリカで暮らせばアメリカキャラ、オーストラリアで暮らせばオーストラリアキャラになり、言葉と一緒にその環境の中でスムーズにやっていくためのキャラを着るようになりました。

映画館に行くと、それが義務であるかのようにコーラ飲んでポップコーン食って「Yeah!」です。
日本ではカチンときていたような店員さんの不手際も、アメリカキャラの自分は寛大に受け止めたりします。

そうやって徐々に自分の新たなキャラが立つようになり、気がつくと「あれ?ちょっと日本語の自分とキャラが違うんじゃないの?」と思う場面がある...って、私だけでしょうか?

そもそも日本語のキャラは、英語のキャラクターから派生したと思いますが、ここで私がキャラと言いますのは attitude のほうが近いように思います。

アメリカにはアメリカの、オーストラリアにはオーストラリアの好まれる attitude があり、自分なりのアンテナで感じたキャラを着ました。
周りに馴染みたい、溶け込んでいきたいという気持ちが強かったと、言い訳しときます。(笑)

では、アメリカキャラな自分に出来て、他のキャラでは出来ないことの例を書きます。

アメリカキャラな私は他人を褒めることに一切の抵抗や、恥ずかしさを感じませんでした。

例えば、日本で素敵なジュエリーを身につけていたり、とてもその人に似合う帽子をかぶっていたりする人を見かけても、「お似合いですね」と声をかけることはありません。
心ではそう思っているのですが、恥ずかしくて言えません。
また、私が「お似合いですね」と声をかけることで、相手の方が恥ずかしくなってしまったりして、かえって迷惑をかけるのではないかという思いもあります。

でもアメリカでは一日一善じゃないですけど、出かけると一度は誰かの何かを褒めました。
何も恥ずかしくなかったですし、相手も "Thank you." とニッコリ返してくれるだけで、「ゲェ!ナンパしてきた」といった空気は一切ありませんので、そこがポイントだったかもしれません。

私自身もストレートのロン毛だったころは、女性によく髪の毛を褒めてもらいました。
もちろん "Thank you." と答えるだけで、それをきっかけにナンパしたことはありませんよ。

オーストラリアにはそういう空気はありませんでしたので、出来なかったです。

それから、何といっても「当たって砕けろ!」ですね。

若者の専売特許です。
ある程度大人になると「砕けない方法」を考えて、計画的に物事に取り組まねばなりません。

渡米前の私はどちらかというと楽観的で「ミュージシャンになりたい」という夢以外のことはどうでもいいこととして、とにかく考えることや努力を一切しませんでした。
すべてが成り行きまかせで、大人から見たら「無気力」だったかもしれません。
そういえば私たちの世代は世間から「新人類」と言われていました。

そんな私が「当たって砕けろ!」を実践しはじめたのは、渡米してからのことでした。
帰国してからも実践しているわけではありませんので、やはりこれもキャラのひとつだったんだと思います。

日本にいた頃は親や友人たちが力になってくれたり、意見してくれたり...
同級生がするように自分もしておけば流れに乗れたり...
ある意味周りがどうにかしてくれるところがあったので、「当たって砕けろ!」的な行動を起こす必要はなかったんだと思います。

ところがアメリカでは親も友人たちも遠く離れてしまい、家庭用ファックスさえほとんど普及していなかった時代ゆえ、限りなく一人になり...東京時代より一歩進んだ一人暮らしがそこから始まりました。

一人でいると電話は全く鳴りませんし、誘ってくれる友人もいません。
自分から行動を起こさないと何も始まらない環境だったので、「ハッタリ上等!」「当たって砕けろ!」にならざるを得ませんでした。

アメリカはそんな若者に寛大で大勢の人たちにたくさん助けてもらいました。
出会う人みんなが、その場でその人たちに出来る最高の仕事で私を導いてくれました。
アメリカ人の正義感や、自由を愛する気持ちはこういう体験をするとよくわかるようになります。

ただ、そういう精神の上に成り立っていない私は「あれ?そういうものなの?」と勝手な思考が芽生え、2度、3度と助けられると完全に自分を誤解します。
...ていうか、していました。

今考えると激しい無知を掲げて無謀の連続、ポジティヴに表現すると行動力抜群!
常に全力でそれなりに充実した時間だったと思いますし、あのテンションでなければ堕落の生活しかなかったんだと思います。
3年しかいなかったのでそれですんでいたのでしょう。
もっと長くいたら、きっとキツイおしおきを受けていたと思います。

海外生活を終えて帰国し、早13年。
日本社会でサラリーマンの端くれとして生活してきました。

さすがに、海外で生活していた頃の自分とは価値観が大きく違った私が今ここにいて、
「もうあの頃のようなキャラは意識しても着れないなあ...」
と感じたことから「英語キャラな自分」として自己分析をしてみようと思ったわけです。

同じ私であっても、初めての海外生活がオーストラリアのときのようにサラリーマンとして海外赴任する状況であれば結果は違ったものであったと思います。

2008年1月30日

べーグル まとめ編

数回にわけて書いた記事ですが、ここでまとめておきます。
一部修正しております。

今でこそ日本でもパン屋さんで見られるようになったべーグル。
そういえばこの間スーパーの冷凍食品のコーナーでも見ました。

出始めの頃はドーナツの形をしたパサパサのパンばかりで、べーグル本来のモチモチした食感を出せているものには出会えなかったですが、近頃はボチボチそれっぽいものが食べられるようになりました。

べーグルLOVE♪な私がはじめてその存在を知ったのは渡米後まもない頃のデリでした。

ドーナツみたいな形をした物体がたくさん並べられた景観は、私の気を引くに充分なオーラを放っておりました。
「...なんじゃこりゃ? 縦の列で若干色が違ってるな... 味が数種類あるってことか... 油で揚げた肌ではないな... ということはドーナツじゃないってことだよね... なんじゃこりゃ?」

訊くとべーグルだといいます。
ただべーグルといわれても謎は深まるばかり。

安そうだし、とりあえず1個買ってみました。
噛みしめるほどに味わい深くなる不思議なパンは、私にとって新しい味でしたが劇的な出会いとはいえませんでした。

しばらくして...

デリにサンドイッチを買いに行ったときのことです。
私より先にいた女性客がべーグルにクリームチーズを挟むようオーダーしています。
「え~っ!? そうやって食べるんだぁ~っ!」

お寿司屋さんでとなりの客が「まぐろ」を注文したときに、「あっ、おれも」といえる人と、いえない人がいます。
私は後者で、「くっそー!今おれが頼もうと思ってたのにタッチの差だよ...」と思いながら、となりの客が次の注文をするまで待つタイプです。(次もまぐろを注文されると帰りたくなります)

クリームチーズLOVE♪♪な私ですが、まぐろの例えの一面が邪魔をして、その場でクリームチーズべーグルを注文することはできませんでした。

翌日...

クリームチーズべーグルとの出会いはとてもヘブンリーで、今まで知らずに生きてきたことですごく損をした気分になりました。
噛みつくと脇からムニュっとはみ出すほどたっぷりのクリームチーズとべーグルは黄金のコンビネーションだと今でも確信しています。

しばらくすると、私の近所のデリのべーグルは実はいまいちだったことに気がつきました。
(もちろん私の好みという意味で...です。)

ユダヤの友人に「べーグルはユダヤの食べ物だから、ユダヤ系のデリがいいんじゃない? おれの一押しのお店が katz のアパートのすぐ近くにあるよ。」とお勧めされて行ってみたユダヤ系のデリ。
86丁目とアムステルダムアヴェニューの角にそこそこ大きなレンガ色の教会があります。その教会のとなりにあるデリは一般的なデリのようなお菓子、新聞などは販売しておらず、ガラス戸の外には一切モノを並べないとても質素な佇まいで、バスに乗って外を眺めてても見逃してしまうほど主張がありません。

そんな店の前で思わず「回れ右」をして帰りそうになりましたが、「所詮べーグルじゃん。騙されてもしれたもんだ。」と気を取り直し入店。

初老の店員はとても紳士的な接客で、べーグルのことを訊いたら何でもわかりやすく答えてくれそうです。
プレーンなべーグルを注文すると、「ブルベリー入りもおいしいよ」なんて上品にお勧めしてくれます。
「じゃあそれも!」と2個購入しました。
値段はいつも買っていたデリより安くて驚きました。

お店を出るとまずプレーンのクリームチーズべーグルを袋から取り出し、パクリ...
「あり得ない...」
もう一口かぶりつきます。
「絶対にあり得ない...」

前から歩いてくる人に教えてあげたくなるくらいにヘブンリーです。

そのデリのべーグルは他店では味わえないモチモチ具合で、噛むほどにうまみを増し、クリームチーズと一体となっていきます。
その一つ一つがこれまでに体験したことのないレベルの高さなのです。

以降はそのお店に2日に一度くらいのペースで通いました。
学校帰りにちょっと遠回りして、食べながらアパートに戻りました。

そんなわけで、べーグルは私のニューヨークの味(B級グルメ)ベスト3に入っています。
中華のチキンwithブロッコリー、標準仕様のピザ、クリームチーズべーグルです。

高いレストランであまりの美味さに後頭部が麻痺したこともありましたが、帰国後なつかしく思い出し、また食べたいと思うのはB級ばかりです。
中でもクリームチーズべーグルは日本とのレベルの差が激しく、恋しさではダントツ一位です。

2000年にニューヨークを訪れた際、このデリに行き、袋一杯のべーグルを購入しました。
数としては20個くらいだったと思います。
これを日本に持ち帰って、日本で楽しんだやろうと目論んだのです。

結局スーツケースに入れて持ち帰ったのは10個くらいだったと思います。
成田からの道中は、宝を持ち帰る気分でそれはそれはウキウキでした。

ところが、家に着いてべーグルを取り出すと...
カッチカチで食べられませんでしたっ!

帰国日、空港へ行く前に立ち寄って買うべきでした...

今度ニューヨークに行くときは布団圧縮袋を持っていって、真空パックにして持ち帰り、冷凍保存してみます。(笑)
そっか、電気掃除機も持っていかなきゃ!

2008年1月29日

欧米的な考え方がぶつかった壁 まとめ編

数回にわけて書いた記事ですが、ここでまとめておきます。
一部修正しております。

まずは時間的なことの整理のために書いておきますね。
89年 8月 ニューヨークへ
92年 9月 ニューヨークより帰国 11月 旅行会社(海外旅行の現地手配をする会社)入社 シドニーへ
94年11月 福岡に転勤 以降は国内移動

というわけで、福岡に到着したときには(比較的)欧米的な考え方をしていた私。
当然日本の社会ではぶつかる壁も多く「つもり」の多さが目立ちました。
「自分はちゃんとやってるつもり...」とか、そういうやつです。

日本の会社社会の中では小さな壁はいくらでもあって、ひとつずつ真摯に受け止めて直していこうなんて謙虚な姿勢でいると "うつ" になりかねませんので、私は "ON" と "OFF" を切り替えていこうと考えました。
割り切りで上手くやっていけるんじゃないかと甘く考えたわけです。

ところが、あるとき取引先との電話を切った私に支店長がこう言いました。
「お前の "すみません" は軽いと思う。どれだけ悪いと思っているのかが伝わってこない...ところがある。」
これだけはっきりと指摘していただけるのは、とてもありがたいことです。
私は支店長を尊敬しておりましたので、このときに初めて「このままではいけないんじゃないか?」と考えるようになり、その反面「そんな簡単に人って変われないんじゃないか?」とものすごく客観的に冷めた目で見ている自分がいたりして、しばらく悩みました。

さて、そんな私が「このままではいけない」と本気で感じた出来事がありました。

私の勤めた会社は旅行代理店の下請けで、海外旅行の現地手配をしていました。
海外旅行の卸業者と言う方が一般的にはイメージしていただきやすいかもしれません。
(旅行業の方には「はぁ?」と言われるでしょうけど・汗)

私は福岡支店で出た欠員の穴埋めとして赴任したので、前任者から多くの仕事を引き継ぎました。
その中にオーストラリア行きの修学旅行手配が含まれておりました。
先に書きましたように修学旅行を受注したのは世間に名の知れた旅行代理店で、私たちはその下請け。
オーストラリアでの宿、食事、バス、ガイドなどの手配が仕事でした。

ツアーが終了すると現地支店からレポートが入ります。
ほとんどは「無事終了しました。」なのですが、この修学旅行のレポートにはこう書かれていました。
「最終日空港にて添乗員がスーツケースを紛失。バスから荷物を降ろしチェックインのための混乱時に何者かが持ち去った可能性。添乗員は日本で解決するとのこと。」

空港に到着すると、お客様のスーツケースなどの荷物をバスから降ろし、添乗員なりガイドなりが個数を確認します。
その後、航空会社のチェックインカウンターへ荷物を移動するのですが、短時間に終えなくてはならないため、現場はかなり慌しくなります。
人数の多い団体は尚更です。
このバタバタの中で何者かが添乗員のスーツケースを持ち去ったようでした。

一般的に添乗員はそれ専門の会社や人に代理店が依頼するケースが多く、代理店の社員が添乗することはそれほどありません。
が、このときの添乗員は旅行代理店の営業マンで、出発まで私が打ち合わせを重ねた人でした。
(修学旅行をした学校担当の営業マンということです)

空港での添乗員、ガイドには仕事がたくさんあり、自分の荷物がなくなったからとその場を離れるわけにもいかず、盗難届けを提出する時間が無いので「日本で解決する」とガイドに言って添乗員は帰国しました。

結局私たちが手配したガイドがツアーを見送った後、盗難の被害届を出しました。

何百と並んだスーツケースの中から無くなった1個が添乗員のものであったことは不幸中の幸いと、私は解釈しました。

「スーツケース盗られたんですってね!?」といった軽い感じを想定して、私は営業マン(添乗員)に電話しました。
すると...
彼は大変憤慨しております。
「お前んとこのガイドがボーッとしてるからスーツケース盗られたじゃねえかよ!」

...あれぇ???? どうなってんの????

彼は「どうしてくれんだよ?」という状態だったし、終了レポートの内容と根本的に食い違う話だったので、とにかく状況を再確認しようと電話を切り、シドニーへ電話。

「修学旅行なので当然ベテランガイドを使っていて、空港到着時にはガイドだってやるべき仕事がたくさんあるから、添乗員の荷物を見張っているわけにはいかないし、そもそも見ててくれと頼まれたわけでもない。」
ということでした。

欧米的な考え方の私は、「旅行のプロである添乗員が自分の荷物を盗られたのは恥ずかしいこと。自己管理ができていなかった証拠。自分が悪いんだから自分で保険処理してください。」でした。
私は「自分で保険処理してください。」を言うために彼に会いに行きました。

彼は清算などで忙しくしていて、私は少し待ちました。
その間にコワモテの上司がやってきて...
「ああ、○○さん?話は聞いたよ。あいつ怒ってるよ~。あんな穏やかなヤツが電話であんな言い方をするなんて、初めて見たよ。あいつ同僚にも影響力あるしさ、きっちりしてやってよ。もうあなたのとこ使わないなんて言い出したら大変じゃない。頼んだよ。」

...何じゃ? どういうことだ? 脅してんのか?

本人が来てくれました。
やはり怒っています。(っていうか、怒っているフリをしているように見えました。)

彼はどうして私たちの会社に仕事を依頼したか...など、持ち上げることを最初に言ってから、「なのにこのありさま。どうしてくれるんだ?」と締めくくりました。

仕事を依頼している側が常に立場が上だという考え方の人らしいものの言い方でした。

私は差し障りなさそうな言葉を選んで、
 ・ガイドに業務上の落度はなかったこと。
 ・スーツケースがなくなったのは故意ではなく、アクシデントだったこと。
 ・彼の保険で対応して欲しいこと。
を伝えました。

ところが彼は「保険には入っていない」の一点張りです。
クレジットカードも一枚も持っていないと言います。
さすがにこの場で「じゃあ貴社の保険を使ってください。」とは言えず、出直すことにしました。

「保険には入っていない」
大手旅行会社の営業で、年に数回はお客様をご案内して海外に行く人が「保険に入っていない」など、到底信用できるわけもなく、クレジットカードを持っていないこともウソっぽい言い訳をするので、つまりは「お前んとこで何とかせぇ」という意味だと解釈しました。

考えれば考えるほど腹が立ってきて、この怒りをどこにぶつければいいのか状態の私。

何がしの弁償をしないと次に進めないことはわかっていましたが、私や現地スタッフの正義感を無視された(添乗員が自分の非を一切認めていないところ)まま、彼の代わりに保険処理することにとても複雑な心境でした。

結局シドニー支店の保険を使うことにして、保険金が支払われるまでに2ヶ月くらいかかることを添乗員に伝え、了承を得ました。

ところが、海外の常で、2ヶ月経ってもまだ保険金は支払われず、保険会社に催促しても「まだ処理が終わっていない」という状況に陥りました。

添乗員からも催促の電話が入るようになりました。

私の心の底には「あんたが悪いんだから待つぐらい待て」という気持ちがありましたが、2ヶ月で保険金が支払われると案内した手前、これが延びてしまっていることには責任を感じていました。
「3ヶ月と言っておけばよかった」という程度に。

結局私はこれを「個の問題」として捉えてしまっていたのです。
会社の問題として考えれば、こんなことはサッサと済ませてしまったほうがいいに決まっていますが、そういう判断ができませんでした。

そこらへんを見抜かれてしまったのでしょうか...
添乗員はこの件を私の会社の先輩に持ちかけました。

その日外回りから帰ってきた先輩が支店長に何やら報告を...
シドニー、スーツケースといった心当たりのある単語が、チョロチョロと聞こえてきました。
すると支店長から呼び出しが...

「例の件、どこまで進んでんの?」
「保険金の支払いが遅れておりまして、待ってもらっている状況です。」

先輩の報告では、添乗員はスーツケースがなくなったことはもちろん、その後の私の対応、態度に対しても怒っているということでした。

「じゃあ、二人で添乗員に会いに行って、もう一度よく状況を説明してきなさい。」と支店長。

先輩と出掛けた道中、このようなアドバイスをいただきました。

「お前の言い分もわかる。でも、そんなことで言い争っても仕方ない。自分たちは仕事を貰っている立場なんだから、相手を怒らせてしまって仕事を貰えなくなるのが一番つまらない。」

それはその通りなのですが、当時の私にとっては「頭で理解できても、実際にはできないこと」でした。
相手が「自分のミスで迷惑をかけて申し訳ない」という物腰であれば、きっと気分良く対応させていただいたことと思うのですが、ここで私がペコペコしては修学旅行の運行に携わった現地スタッフに申し訳ないという気持ちが強く...

応接室で先輩と横並び、添乗員と向かい合いました。

このときの添乗員はかなりの勢いでまくし立てました。
先輩は「仰るとおり。申し訳ない。」と神妙な面持ちで話を聞きました。
私は一言も話さず、お詫びも言わず、頭も下げずで、子供な対応に終始しました。

事務所に戻り支店長に報告。

結局、オーストラリアの保険会社に任せているといつになるかわからないということで請求を取り下げ、私たちの会社が日本でかけていた保険を使うことにし、それもまた時間がかかりますので会社がその保険金を立て替えて添乗員に渡し、その後の営業活動は私に代わって先輩が担当するということで決着しました。

最後まで「ちぇっ!ゴネ得かよ!」と気分の悪かった私ですが、確かに時間が経ってしまったため会社の決定に物申すほどの熱さは失くしていました。
そして、「こんな自分ではやっていけないんじゃないか?」と真剣に考える自分もいました。

以降、自分なりに気をつけて日本流に馴染もうと努力(?)するようになりました。

そして、いつだったか、「あんたの会社に任せた仕事の中で起こったことは、全部あんたの会社の責任だ」と言った取引先の人がいまして、その時に初めてスーツケース盗難の件での自分の対応のまずさを知りました。

「任せる」ということのベースは「信用してんだから」ってことです。

だから、仕事を請ける側もそういう覚悟で請けるものってことなんですね。
スーツケースが無くなった原因のひとつに添乗員の不注意もあったわけですが、それも安全、円滑に旅行を手配するという大前提で仕事を請けた私たちの会社の責任の中で起こったこと。
「会社の責任>添乗員の責任」というわけです。

この解釈が正しいか、間違っているか、正直今でも他人様に語れるほどわかっておりません。
そういう考え方もあるってことを学んだにすぎません。

特にサービス業の場合は、義務の部分をこなせばいいとか、決まったサービスを提供すればいいとかではなく、最後まで綺麗に終わらせて、気分良くお支払いいただいて終了ってことなので、いろいろと判断の難しいことが起こります。

添乗員に対して今思うところは、あのコワモテの上司にやらされていた部分があったんじゃないかってことです。
決して私も無謀な主張をしたわけではありませんので、話し合いの中で「その点に関しては自分が悪かった」と思うところもあったんじゃないかと思うのです。
でもそれを認めてしまうと上司に腰抜け扱いされてしまうような事情があったと考えると、話にスジが通ります。

あの場面で私がそのことに気付いていれば...
っていうか、気付いてないのは私だけだったのかな?

2008年1月28日

欧米的な考え方がぶつかった壁 その4

こちらにまとめ編をアップロードしてありますので、どうぞ♪

前回の続きです。

支店長に「じゃあ、二人で添乗員に会いに行って、もう一度よく状況を説明してきなさい。」と言われ、先輩と出掛けた道中、このようなアドバイスをいただきました。

「お前の言い分もわかる。でも、そんなことで言い争っても仕方ない。自分たちは仕事を貰っている立場なんだから、相手を怒らせてしまって仕事を貰えなくなるのが一番つまらない。」

それはその通りなのですが、当時の私にとっては「頭で理解できても、実際にはできないこと」でした。
相手が「自分のミスで迷惑をかけて申し訳ない」という物腰であれば、きっと気分良く対応させていただいたことと思うのですが、ここで私がペコペコしては修学旅行の運行に携わった現地スタッフに申し訳ないという気持ちが強く...

応接室で先輩と横並び、添乗員と向かい合いました。

このときの添乗員はかなりの勢いでまくし立てました。
先輩は「仰るとおり。申し訳ない。」と神妙な面持ちで話を聞きました。
私は一言も話さず、お詫びも言わず、頭も下げずで、子供な対応に終始しました。

事務所に戻り支店長に報告。

結局、オーストラリアの保険会社に任せているといつになるかわからないということで請求を取り下げ、私たちの会社が日本でかけていた保険を使うことにし、会社がその保険金を立て替えて添乗員に渡し、その後の営業活動は私に代わって先輩が担当するということで決着しました。

後になってわかったことですが、日本の風習として「あんたの会社に任せた仕事の中で起こったことは、全部あんたの会社の責任だ」というところがあります。
「任せてんだから...」ということなのです。
信用してんだからってことです。

くどいっすね。(笑) ごめんなさい。

まあ、仕事を請ける側はそういう覚悟で請けるものってことなんですね。
義務の部分をこなせばいいということではなく、最後まで綺麗に終わらせて、気分良くお支払いいただいて終了ってことです。

ただ、添乗員に対して今思うところは、あのコワモテの上司にやらされていた部分があったんじゃないかってことです。
決して私も無謀な主張をしたわけではありませんので、話し合いの中で「その点に関しては自分が悪かった」と思うところがあったんじゃないかと思うのです。
でもそれを認めてしまうと上司に腰抜け扱いされてしまうような事情があったと考えると、話にスジが通ります。

あの場面で私がそのことに気付いていれば...
っていうか、気付いてないのは私だけだったのかな?

2008年1月27日

欧米的な考え方がぶつかった壁 その3

こちらにまとめ編をアップロードしてありますので、どうぞ♪

前回の続きです。

「保険には入っていない」一点張りの添乗員。
大手旅行会社の営業で、年に数回はお客様をご案内して海外に行く人が「保険に入っていない」など、到底信用できるわけもなく、クレジットカードを持っていないこともウソっぽい言い訳をするので、つまりは「お前んとこで何とかせぇ」という意味だと解釈して、私は一旦退却することにしました。

考えれば考えるほど腹が立ってきて、この怒りをどこにぶつければいいのか状態の私。

何がしの弁償をしないと次に進めないことはわかっていましたが、私や現地スタッフの正義感を無視された(添乗員が自分の非を一切認めていないところ)まま、彼の代わりに保険処理することにとても複雑な心境でした。

結局シドニー支店の保険を使うことにして、保険金が支払われるまでに2ヶ月くらいかかることを添乗員に伝え、了承を得ました。

ところが、海外の常で、2ヶ月経ってもまだ保険金は支払われず、保険会社に催促しても「まだ処理が終わっていない」という状況に陥りました。

添乗員からも催促の電話が入るようになりました。

私の心の底には「あんたが悪いんだから待つぐらい待て」という気持ちがありましたが、2ヶ月で保険金が支払われると案内した手前、これが延びてしまっていることには責任を感じていました。
「3ヶ月と言っておけばよかった」という程度に。

結局私はこれを「個の問題」として捉えてしまっていたのです。
会社の問題として考えれば、こんなことはサッサと済ませてしまったほうがいいに決まっていますが、そういう判断ができませんでした。

そこらへんを見抜かれてしまったのでしょうか...
添乗員はこの件を私の会社の先輩に持ちかけました。

その日外回りから帰ってきた先輩が支店長に何やら報告を...
シドニー、スーツケースといった心当たりのある単語が、チョロチョロと聞こえてきました。
すると支店長から呼び出しが...

「例の件、どこまで進んでんの?」
「保険金の支払いが遅れておりまして、待ってもらっている状況です。」

先輩の報告では、添乗員はスーツケースがなくなったことはもちろん、その後の私の対応、態度に対しても怒っているということでした。

「じゃあ、二人で添乗員に会いに行って、もう一度よく状況を説明してきなさい。」と支店長。

続きは次回。

2008年1月26日

欧米的な考え方がぶつかった壁 その2

こちらにまとめ編をアップロードしてありますので、どうぞ♪

前回の続きです。

一般的に添乗員はそれ専門の会社や人に代理店が依頼するケースが多く、代理店の社員が添乗することはそれほどありません。
が、このときの添乗員は旅行代理店の営業マンで、出発まで私が打ち合わせを重ねた人でした。

空港の忙しい場面で自分の荷物がなくなったからとその場を離れるわけにもいかず、結果として書類関係の手続きをする時間が無いことから「日本で解決する」と言って帰国した添乗員。
私たちが手配したガイドはツアーを見送った後、盗難として被害届を出しました。

何百と並んだスーツケースの中から無くなった1個が添乗員のものであったことは不幸中の幸いと、私は解釈しました。

「スーツケース盗られたんですってね!?」といった軽い感じを想定して、私は営業マン(添乗員)に電話しました。
すると...
彼は大変憤慨しております。
「お前んとこのガイドがボーッとしてるからスーツケース盗られたじゃねえかよ!」

...あれぇ???? どうなってんの????

彼は「どうしてくれんだよ?」という状態だったし、終了レポートの内容と根本的に食い違う話だったので、とにかく状況を再確認しようと電話を切り、シドニーへ電話。

「修学旅行なので当然ベテランガイドを使っていて、空港到着時にはガイドだってやるべき仕事がたくさんあるから、添乗員の荷物を見張っているわけにはいかないし、そもそも見ててくれと頼まれたわけでもない。」
ということでした。

欧米的な考え方の私は、「プロなのに自分の荷物が盗られたのは恥ずかしいこと。自己管理ができていなかった証拠。自分が悪いんだから自分で保険処理してください。」でした。
私は「自分で保険処理してください。」を言うために彼に会いに行きました。

彼は清算などで忙しくしていて、私は少し待ちました。
その間にコワモテの上司がやってきて...
「ああ、○○さん?話は聞いたよ。あいつ怒ってるよ~。あんな穏やかなヤツが電話であんな言い方をするなんて、初めて見たよ。あいつ同僚にも影響力あるしさ、きっちりしてやってよ。もうあなたのとこ使わないなんて言い出したら大変じゃない。頼んだよ。」

...何じゃ? どういうことだ? 脅してんのか?

本人が来てくれました。
やはり怒っています。(っていうか、怒っているフリをしているように見えました。)

彼はどうして私たちの会社に仕事を依頼したか...など、持ち上げることを最初に言ってから、「なのにこのありさま。どうしてくれるんだ?」と締めくくりました。

私は差し障りなさそうな言葉を選んで、
 ・ガイドに業務上の落度はなかったこと。
 ・スーツケースがなくなったのは故意ではなく、アクシデントだったこと。
 ・彼の保険で対応して欲しいこと。
を伝えました。

ところが彼は「保険には入っていない」の一点張りです。
クレジットカードも一枚も持っていないと言います。
さすがにこの場で「じゃあ会社が入っている保険を使ってください。」とは言えず、改めて出直すことにしました。

続きは次回。

2008年1月25日

欧米的な考え方がぶつかった壁 その1

こちらにまとめ編をアップロードしてありますので、どうぞ♪

えっと... まずは時間的なことの整理のために書いておきますね。
89年 8月 ニューヨークへ
92年 9月 ニューヨークより帰国 11月 旅行会社入社 シドニーへ
94年11月 福岡に転勤 以降は国内移動

というわけで、福岡に到着したときには(比較的)欧米的な考え方をしていた私。
当然日本の社会ではぶつかる壁も多く「つもり」の多さが目立ちました。
「自分はちゃんとやってるつもり...」とか、そういうやつです。

日本の会社社会の中では小さな壁はいくらでもあって、ひとつずつ真摯に受け止めて直していこうなんて謙虚な姿勢でいると "うつ" になりかねませんので、私は "ON" と "OFF" を切り替えていこうと考えました。
割り切りで上手くやっていけるんじゃないかと甘く考えたわけです。

ところが、あるとき取引先との電話を切った私に支店長がこう言いました。
「お前の "すみません" は軽いと思う。どれだけ悪いと思っているのかが伝わってこない...ところがある。」
これだけはっきりと指摘していただけるのは、とてもありがたいことです。
私は支店長を尊敬しておりましたので、このときに初めて「このままではいけないんじゃないか?」と思うようになり、その反面「そんな簡単に人って変われないんじゃないか?」とものすごく客観的に冷めた目で見ている自分がいたりして、しばらく悩みました。

さて、そんな私が「このままではいけない」と本気で感じた出来事がありました。

私は福岡支店で出た欠員の穴埋めとして赴任したので、前任者から多くの仕事を引き継ぎました。
その中にオーストラリア行きの修学旅行手配が含まれておりました。
修学旅行を受注したのは世間に名の知れた旅行代理店で、私たちはその下請け。
オーストラリアでの宿、食事、バス、ガイドなどの手配が仕事でした。

ツアーが終了すると現地支店からレポートが入ります。
ほとんどは「無事終了しました。」なのですが、この修学旅行のレポートにはこう書かれていました。
「最終日空港にて添乗員のスーツケースを紛失。バスから荷物を降ろしチェックインのための混乱時に何者かが持ち去った可能性。添乗員は日本で解決するとのこと。」

続きは次回...

2008年1月24日

TOEIC 受験のすすめ

2000年1月、私が働いていた旅行会社が廃業になりました。

当時の私は一生その会社で働く覚悟が出来ていましたから、現実に起こったことから見るととても無防備でした。
気持ちを入れ替えて就職活動をすることになったのですが、自分が何を仕事にしていくべきなのかがわからず、ただ勤めていた会社への変な忠誠心で同業他社への就職だけはやめようと決めていました。

「最近の新卒者は大変だねぇ。」などと言っていた自分が、数ヵ月後にはある意味彼らよりもハンディを背負った状態で同じフィールドに立つことになるとは夢にも思っておりませんでした。

私は英語を武器にするしかありませんでしたが、TOEIC などのテストを受験したことがなかったため履歴書に書けず、何の武器にもなりませんでした。
「留学経験と駐在員経験がある」ことをアピールしたところで、どれだけの英語力があるのかは第三者には伝わらないですからね。
実際面接でもそう言われました(面接官が英語が出来なければ測り知ることも出来ない)し、上司の紹介で外資系企業の英語面接を受けたときも「あなたの英語力は大体わかったが、採用時のルールだからTOEICスコアがないと本社が判断できないから難しい」と言われました。(実際不採用でした)

数社から不採用の知らせが届き、「このままではこれの繰り返しだ」とTOEIC受験の必要を感じるも、自分のタイミングで受験できるものではなく、今は年間8回のスケジュールのようですが当時はもう少し少なかったような...、次のテストまで数ヶ月待たなくてはなりませんでした。

失業中の数ヶ月はとても長い時間です。
しかも結果が出るまでには更に1ヶ月の時間がかかります。
帰国後すぐに休日を一日つぶして受験しておけば、この長い時間を節約できたと思うと、後悔以外のなにものでもない気持ちでした。

結局私は受験まで数ヶ月あったものの一切の勉強をしませんでした。
勉強によって一時的に自分の実力以上のスコアが取れたとしても、会社に入った後「何だよ!」と言われるようでは長く勤められない気がしたからです。
今となっては可能性を狭める考え方だったと思いますが...

そんなわけで、留学など海外生活を経験して多少なりとも英語力を身につけた方は、帰国後すぐに TOEIC を受験されることをおすすめします。
駐在員の方はもちろん、駐妻の方たちでも、いつそれが役立つかわかりませんし、必要になってから受験すると時間を損します。

留学生で帰国後就職活動を予定している方は、帰国前に留学先で受験されることをおすすめします。

2008年1月22日

ビジネスクラス まとめ編

数回にわけて書いた記事ですが、ここでまとめておきます。
一部修正しております。

物事を知らないということはたくさんの損をしますね。

私が初めて海外に出たのは渡米のときだったことは以前に書きました。
実はこのとき、エコノミークラスのノーマルチケット(往復)を購入しました。
海外旅行を計画したこともありませんでしたし、興味もなかったのでディスカウントチケットなるものを知りませんでした。
何よりパスポートも持っていませんでした。
相談にのってもらった旅行会社の人が「ディスカウントチケット云々」と言っていましたので、言葉では認識しておりましたが、意味がわからず、知ろうという気もありませんでした。

私の条件ははっきりしていたので、それを伝えてプロに任せるのがベストと考えました。

私の条件とは...
学校探しに行くので、ビザ取得のための帰国をするが、それがいつかは不明。
つまり現地で帰国便の日付を変更できる必要がありました。
それだけです。

旅行会社の人のおすすめはこういうことでした...
3ヶ月間ステイできるディスカウントチケットがない。
一番安い往復のディスカウントチケットを買って、NY→東京(帰国便)を捨ててしまう。
実際にニューヨークから一時帰国する際には、どのみち「東京→NY」が必要になるので現地で往復のディスカウントチケットを買えば良い。
(当時は帰国便のチケットがなくても入国できました)

この方法は海外旅行慣れしている人にとっては至極あたりまえのことかもしれませんが、私には不安要素が多すぎました。
最長で3ヶ月滞在するつもりなのに、入国審査のときにウソをつかなくてはならなかったからです。(チケットは帰国便が2週間後くらいできってあるので、2週間の滞在と言わないと辻褄が合わない)

次におすすめしていただいたのは...
ノーマルチケットを買うこと。
帰国便は変更も出来るし、五番街のJALオフィスで返金までしてもらえるから、その返金してもらったお金でNY→東京→NY のディスカウントチケットを購入すれば良い。
つまり往路の東京→NY分が高い買い物になってしまうけど、計画としては完璧とのことでした。

私もこの案に賛成しました。

いよいよ出発の日を迎えました。
成田空港までは問題なく行けました。(あたりまえですよね)
空港のこともわからないことだらけでしたが、男女7人夏物語で見た光景に感動しまくり、テンションが高かったので何とかなりました。

JALのチェックインカウンターに到着し、パスポートとチケットを係員に渡します。
すると彼女はパソコンのキーをカタカタと軽快にたたき、一瞬モニターを見つめる顔が固まり、こういいました。
「少々お待ちください...」

一瞬にして私を不安に陥れた、チェックインカウンターの女性。
「この場におよんでなんだよ~」

女性は私のチケットを持って、少しはなれたところにいたスーツの男性に話しに行きました。

「...。」

1分もかからなかったと思いますが、私の指先は何発カウンターをたたいたかわかりません。
女性は表情に変化なく戻ってきて、パソコン作業を続けました。
私のスーツケースとギターケースにはタグが取り付けられ、「お待たせしました」とボーディングパスが手渡されました。

「ビジネスクラス」と書かれています。
「何だよ!エコノミークラスの紙を切らしちゃったんなら一言そういえよ!」と少々不機嫌な私。

出国を終え、搭乗口へ。
人であふれています。
こんなにたくさんの人がニューヨークに行くんだ...と妙に感心したのを覚えています。

飛行機に乗ってみると私の席は通路側で、隣り(窓側)にはサラリーマンらしき男性が座っていました。
「クッソー!景色見えないじゃん」←カウンターの女性に対して

初めての国際線は眠れないし、揺れると怖いしで私にとっては最悪のフライトでした。

ところが...

実は私、このとき自分がビジネスクラスに乗っていることに気づかずにいたのです。
要は世の中にディスカウントチケットなるものが出回り始め、あっという間にメジャーになった時期だったので、ノーマルチケットを持った人間がほとんどいなかったのだと思います。
チェックインカウンターの女性は、大金を支払った私に気を利かせてくれてアップグレードしてくれたのでした。

では、そのことに私が気づいたのはいつでしょう?

ビザ取得のための一時帰国をした際です。
飛行機に乗り込み、「やっぱファーストクラスってすごいわ」なんて思いながら、自分の番号の列を目指します。
「そうそう。こんなだったなあ。」
ビジネスクラスのセクションを通り過ぎ...
私の眼前に広がったエコノミークラス。

しかも私の席は真中のブロックの、しかも真中の席...

往路でそうとは知らずに(それが当たり前という感覚で)乗ったビジネスクラス。
私は得をしたのでしょうか? 損をしたのでしょうか?
カウンターの女性が一言「アップグレードしておきました」と言ってくれれば、さぞ気分の良いフライトだったことでしょう。

そもそも私がビジネスクラスの存在を知らなかったことが一番の問題なのですが...
やはり無知は残酷です。(笑)

2008年1月21日

アパートの老人 まとめ編

数回にわけて書いた記事ですが、ここでまとめておきます。
一部修正しております。

私がその老人に会ったのは、アパート入居後間もない頃でした。
私から1~2週間くらい遅れての入居でした。

ただ、老人は隣のブロックの同じ家主の物件から引越しというよりは、移動してきたのでした。

老人にはじめて話しかけられたときのことは今でもよく憶えています。
「どこから来たんだ?」
「日本です。」

その後彼は自分のことをあれこれ話しはじめたのですが、老人特有の~自分の話は長々とするが他人の話はあまり聞いていない~印象で、20歳そこそこの私には耐え難いものでした。

恐らく5分くらいのものだったと思いますが、ひどく長く感じ、イライラしました。

そもそもほとんど英語ができなかったころの話ですし、「第2次世界大戦にアメリカ兵として出兵した」と言ったので、敵国であった日本のことはあまり良い印象ではないだろうと思い、一刻も早くその場から立ち去りたかったです。

彼は身長170cmくらいの痩せ型で、白髪。
いつも洒落た帽子をかぶり、だらしない格好や、半ズボンでいるところは見たことがありませんでした。
そして「自分はプエルトリコ人だ」と言いましたが、実際の話なのか、哲学的な話なのかはわかりません。
いつも一人でいましたので、結婚していたのか、子供はいるのか...など何度か訊いたことがあるのですが、答えてくれませんでした。
私が質問をしても、私の英語が未熟だったのか... 質問に答えてくれたことは一度もありませんでした。 

彼は年金生活で、一日の大半をアパートの前で通り行く近所の人たちと話をして過ごしたので、ブロックでは皆が知る存在でした。
気分のいい日は通行人を呼びとめ、歌を歌って聞かせました。
相手の目を見て真剣に訴えかけるようにして歌いました。
時には人を自分の部屋に招き入れ、レコードをカラオケにして聞かせました。
まだ音楽がビジネスとして大きくなる以前の、古い年代の音楽だと思います。

他人が歌を聞かされているところを目撃すると私は楽しくて仕方ありませんでした。
すれ違いざまに "犠牲者" を見ると、皆一様に「何とかしてくれよ」「まいったよ」という目で訴えかけてきましたので、私はニッコリと笑ってやりました。
「我慢しろよ!」という思いを込めて。
私なんて何度そのめに遭っていることやら...

ポストに入りきらない郵便物が届くと、老人が預かってくれていました。
そんなときは帰宅した私に、右手の人差し指をクイクイとして知らせてくれました。
私は荷物を受け取ると、彼が口を開く隙を与えず例を言って立ち去りました。
多少でも話をしようものなら、歌地獄に突き落とされることがわかっていたからです。
数回は立ち去ろうとしたときに呼び止められ、地獄を見ました。

彼のことを煙たく思っていたのは私だけではなかったようですが、彼と同年代の老人たちは本当に楽しそうにしていました。
アメリカ人には年齢をいった人でも普通に(気軽に)話ができる人が多かったのですが、その光景を見るとジェネレーションギャップを感じずにはいられず、実は老人たちが若いものに話をあわせてくれてたんだなぁと思いました。

彼の暮らしぶりは質素でした。
朝は早く、夜は8時には就寝。小鳥を飼い、テレビは持たず。
夕食はスープが多く、ラジオを聴きながら食べていました。
雨の日はアパートの中で大音量でレコードをかけ、それに合わせて歌いました。
足を肩幅に開き、手を後ろで組んで、真剣に歌いました。

アパートの玄関のすぐ脇の部屋だった彼は、いつも自分の部屋のドアを開けっ放し、ホールに生活臭と加齢臭を撒き散らしました。
アパートの住民みんなが迷惑していましたが、誰も彼に文句を言いませんでした。
どうやら人の話を聞かない姿勢は徹底していたようです。

私が帰国する日、アパートの前でタクシーを拾い、階下の女性が見送ってくれましたが、その場にいつもいるはずの老人はいませんでした。

その前日には会ったと思いますが、どうせ明日お別れを言えると思い、結局言えないままになってしまいました。


8年後...


私は再びニューヨークの地を踏みました。
やっと友人たちに会いにいける時間ができたからです。

階下の女性とは手紙を半年に1本くらいやり取りしていたので、旦那と出会って3日で結婚したことも、娘が生まれたことも、郊外に家を買って引っ越したことも、旦那は家のローンを返すために仕事を二つ掛け持ち平日はニューヨーク、週末は家という生活をしていることも知っていました。

初日は時差ぼけ調整で捨てて、二日目は音楽関係の友人たちに会い、三日目に階下の女性に会いに郊外の家を訪ねました。

「アパートを見てきたよ。何も変わってないね。」
「老人はいなかったでしょ。」
「うん。いなかった。元気なの?」
「死んだわ。あなたが帰国してすぐ。」
「そうなんだ...」
「彼、一人だったでしょ。部屋で死んでいたんだけど、発見されるまでに随分かかったのよ。」
「...。」
「ほら。あのアパートのホールは臭かったでしょ。誰も死臭に気づかなかったのよ。」
「笑えない話だね。」
「大家さんがしばらく彼の姿を見ていないからって、合鍵で部屋を開けたら亡くなってたの。」
「で、どうしたの?」
「市の衛生局が死体を引き取りに来たわ。」
「家族は?」
「彼は本当に天涯孤独だったのよ。」
「結婚したこともなかったの?」
「なかったそうよ。」

私はホテルへ帰るバスの中で、彼の孤独を思いいたたまれなくなりました。
偉くはなかったけど、正しく生きた人でした。
ただ、パートナーにめぐり合えなかったのか、結ばれない恋を選んでしまったのか...そこのボタンがうまくかけられなかっただけなのに、誰にも看取られず一人で死んでいきました。

どうして彼はニューヨークでの一人暮らしを選んだのでしょうか。

郊外に越した階下の女性がこう言っていました。
「ニューヨークから離れると自分が世間から切り離された気がするわ。」

2008年1月20日

低燃費系でビュンビュン系

日産ノートのCM、個人的にはかなり好きです。
どうしてそんな話題を「海外生活、ロングステイ、留学」のコラムで書くのかといいますと...

CMで男の子キャラが NOTE のことを「ノテ」というじゃないですか?

あれが、忘れていたことを思い出させたからです。

私は高校2年、3年とバンド活動に没頭しました。
うるさい系のロックが大好きでした。
ちょうど和製ハードロックバンドが微妙に一部マニアの間でブームになりだした頃で、ラウドネスを筆頭に、アースシェイカー、44マグナム...と次々にデビューし、「今月のお小遣いではどれを買おう?」状態でした。

同じクラスだったKくんは、44マグナムが好きでした。
かなりビュンビュン系のバンドでした。

44マグナムのデビューアルバムのタイトルは DANGER でした。
休み時間にKくんと話していると...
「あのよう、ダンガーってよう xxxxxxxxxxxxxx け?」

 ...ダンガーって何?

「ダンガーってなに?」
(お前はアホか!?)「マグナムやんけ」

*(     )はKくんの顔にそう書いてありました。

「デンジャーやろ?」
(こいつ何やねん!?)「ダンガーやんけ!」

「アハハ。デンジャーやん。危険ってことやん。」
(こいつ話にならんわ!?)「おい、おい、F」
 ~ノートの端に DANGER と書いて~
「おいF、これなんて読むねや?」
「デンジャーやろ?」(何きいてんの?何か裏でもあるの?)
「あれっ?ダンガーちゃうんけ?」
「デンジャーやろ?」
「......。」

「な?デンジャーやって。」
「何でやねん!ダンガーとも読むやんけぇ!」

って話なんですけど、思い出したのはそのことではなくて...

ある日、私がニューヨークから実家に電話したときのことです。
母がこう言いました。
「そういえば、この間高校の同級生やってKくんってこが電話してきたよ。」
「何て?」
「今度ニューヨークに行くもんで、あんたの住所を教えてくれへんか?って。」
「そんで?」
「断っといた。」
「え(濁点つき)ええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ? 何で?」
「そんな名前聞いたことなかったし、本当か嘘かわからんでなぁ。」
「それで?」
「じゃあ、自分で電話するから電話番号教えてくれって。」
「それで?」
「断っといた。」
「あっ、そう。 何ていって断ったん?」
「あんたから誰にも教えるなってキツく言われてるって。」
「な~に~っ!?」
(ってか、自分を追い込む宣言でそんなようなこと言ったかも...)

というわけで、Kくんとは高校卒業以来一度も会っていません。
後に風の便りで彼がバイクのレーサーになったと聞きました。

海外で暮らしていて友人が訪ねてきてくれるのはとてもありがたいことです。
Kくん、ごめん。

2008年1月19日

投資家について

かおりさん、がんばれ!ってことで、今後第二、第三のかおりさんを生まないよう、自分が経験から知ったことだけ書いておきます。
この記事が行動力旺盛な若者の目に留まれば幸いです。

渡米後数ヶ月して私はニューヨークでバンド活動をはじめました。
そして、大抵のバンドが歩む道のりのライブ活動、デモテープ、レコード契約のためのセールス...と進みました。

当時のニューヨークは不況でしたから、そのままレコードにできるクオリティの高いデモテープを持ち込むと契約が取れる確率が高いと言われていて(レコード会社が経費を抑えられるから)、私たちのバンドも「それをやってみよう」ということになりました。

「そのままレコードになる」ということは多額のお金が必要になり、私たちは投資家を探しました。

投資家のほとんどは自分が得意な分野にしか興味がありません。
私たちが必要なのはバンド育成の投資家です。
彼らはアマチュアバンドを育て、レコード会社に自ら売り込み、契約時に「簡単に言えば手切れ金」的なお金を受け取ります。

彼らは今自分のコネクション上のレコード会社、ディレクターがどんなバンドを必要としているかを知っていて、大抵はバンド側が話を持ちかけても「その手のバンドは(レコード会社に)売れないから」と即断ります。

私たちは一人の投資家と1ヶ月ほど話を詰めることができました。
彼はメガデスというバンドを発掘し、レコード契約をとり、自らマネージメント会社を立ち上げ、そして適当な時期に会社を売って数億円の利益を手にし、潤沢な資金をもっていました。

はじめのうちは彼の興味は自分がいくら投資していくら儲かるかの1点で、私たちの音楽に対する興味などはありません。
もちろんいきなりお金を出すことはありません。

まず、自分たちの演奏を録音したテープを彼に渡しました。
それを持って彼はレコード会社にセールスに行ったようです。
多分「このバンドどう?こちらでレコーディングするからいくらで買う?」という話をしたのでしょう。

その時点で全て「要らない」と言われたらそこまでです。
投資家は少々の無駄な時間を使ったかもしれませんが、お金は使っていません。

もし1社でも利益を生みそうな話があると、話は次のステップに移行します。
バンドとの交渉です。
「自分がデモテープのレコーディングを仕切るから、どのタイミングで、俺の取り分はいくらだ。」といった話で、投資家はここでようやく音楽に口を挟みます。

私たちの場合はレコーディング前に話が終わってしまいましたが、1ヶ月の間に何度も彼と会い、いろんな話をしました。
今思えば、若造たちのやる気、考え方、性格をみて、バンドがどう発展していくかを読んでいたのではないかと思います。
途中「いつになったらレコーディングの話になるんだよ!」と何度も思いました。
結局話は流れましたが、投資家はその理由を一切口にしませんでした。
が、それが全てです。
「お前たちじゃお金になんないよ」ってことでしょう。

まとめます。

・1回、2回会ったくらいでお金を出す投資家はいません。
・自分の夢を理解してくれていると思ってはいけません。
・出してもらった額以上のお返し(銀行の利息どころの話ではない)が必要なことを忘れてはいけません。
・絶対にあなたのやることに口出しされます。
・投資家のほうから寄ってくることはシンデレラストーリーです。(ありえるけどありえない)

それから、うまくスポンサーを獲得しても、お金を生まなければ「あなたが外される」こともあります。

以上のことから、だったら最初から自分で会社を興して銀行や公的機関から借り入れするほうがいいじゃん?と思いませんか?
あなたの夢がお店を持つとか、商売をすることなら投資家に頼る必要などありません。
その時点でものの見方が間違っています。
芸術方面なら、それを専門にしている投資家を探さないと銀行は相手にしてくれませんけどね。

...なんか上からものをいうような内容になってしまって申し訳ないです。

2008年1月17日

ブラックレイン まとめ編

数回にわけて書いた記事ですが、ここでまとめておきます。
一部修正しております。

今はなき松田優作さんの迫真の演技で話題になった映画「ブラックレイン」を観にいったときのことを書きます。

私は平日の夕方一人で映画館に行くのが好きでした。
むちゃくちゃ空いているからです。
タイムズスクエアあたりの大きな劇場に行くとスクリーンはデカいし、音響も良かったりするのですが、私はアパートに一番近い劇場が好きでした。
お客の肩の力の入り具合がタイムズスクエアとは違ってリラックスしているので、ある意味自分の場所というか...

そもそも、映画を見に行くという行為自体が日本とアメリカでは大きく違います。
アメリカでは日常の中にあり、日本のようなイベント性は薄いです。

映画を観るためにバスや地下鉄に乗って出掛けていく時点でイベント行為となり、エネルギーを使います。

私は「退屈だな...映画でも行くか」と、ふらっと出掛け、チケット売り場で何を観るか決めるのが好きだったので、ゆるい日常の中にあるものであって、だからこそ週1本くらいのペースで観にいけていたと思います。
日本では全く行っていません。
映画館にフラっと歩いていける場所に住んだことがないからです。

さて、話をブラックレインに戻します。
この映画に関しては予告編で観ていて、絶対に初日に観ようと決めていました。
チケット売り場に行列はありませんでしたが、それは私が開演ギリギリに行ったからだということを中に入って知りました。
すごい混雑で自分一人分の席を探すにも時間がかかりました。
ようやくひとつ席が空いていることを確認し、その場所はブロックの真中あたりだったので、"Excuse me."を繰り返しながら座っている人たちに足を縮めてもらいながら...ようやく席にたどり着いたときにライトが落ち始めました。

私の両隣は黒人カップルでした。(後に意味を持ってきます...要チェック!)

映画が始まり、なんでアメリカ人がイメージすると日本の町並みってこうなるの?と、その「アホさ加減」に苦笑していたのも束の間...
話は盛り上がっていきます。
観客の盛り上がり方もスゴイです。

もちろん私の周りの人たちはマイケルダグラス応援団なわけで、松田優作をはじめ悪役俳優たちは気の毒なほどにブーイングを喰らっています。

本当にあり得ないほど会場が盛り上がり、異様な空気が充満し始めました。
私はふと自分の身の危険を感じ始めました。

「ヤバイ...今すぐ出たほうがいい」

何がヤバイってこれだけの人数がハイな状態で、スクリーンの中の日本人たち(高倉健さんを除く)に罵声を浴びせています。
「何だオメェ、日本人か!」なんてことになりかねません。
アメリカは怖いのです。
口喧嘩にのせられて刺されるなんてことが現実に起きるところです。
トラブルの匂いがしたら「逃げろ!」「逃げろ!」です。

右を見るとカップルがひざ上ダッコ状態で...
左も同様にひざ上ダッコ状態...
しかもむちゃくちゃ盛り上がってます。

「ヤバイ...出れない」

現実問題として逃げれません...

ブラックレイン公開初日のほぼ満員状態の劇場。
マイケルダグラスが日本人俳優を殴るたびに "Yes!" "Yeah!" と場内は大盛り上がり。

日本人の私は完全にヤバイ状況で、劇場を出るタイミングを間違えてはいけません。
映画はまた別の日でも観れますし、最悪ビデオで観ることもできます。
出るタイミングを間違えて「こら日本人!」なんて挑発に乗せられてしまっては、とても面倒なことになります。

私は映画どころではなくなり、いろんな場面を想定して、シナリオ作りです。
 ・中国人だと言う
 ・韓国人だと言う
 ・空手の真似をする
 ・友達になっちゃう(笑)

どれも駄目です...

スクリーンではマイケルダグラスと高倉健がストーリーの終わりを思わせる状況です。
両隣は変わらずひざ上ダッコ状態。

スクリーンにはクレジットが流れ始めました。

すると...

左側のダッコカップルがすっと立ち上がり移動を始めるではありませんか!
やった!
当然私もこのカップルについて通路に出て、そのあとは猛ダッシュ!
大げさに言っているのではなく、マジで館内猛ダッシュです。
映画館の出口を出て、通りの角を曲がったときようやくホッとしました。

在米中はとにかくトラブルに巻き込まれないように気をつかっていました。
前に書いたことがあるツバ事件のように、誰がいつどんな言葉や態度でキレるかわかりませんし、簡単にナイフだ銃だって話になりますから...大人はそうでもないのですが、ティーンエイジャーは本当に要注意です。
ニューヨークに行って、前方にティーンエイジャーがたむろしているような場面に遭遇した場合、引き返すか、道を曲がってください。
引き返してもいいです。

そんなこんなで映画の中盤以降はほとんど観ていないような感じでしたが、一箇所「お~っ!」と声を上げそうになったのは、ガッツ石松が登場したときでした。
「相変わらずだな~っ!」って。(笑)

2008年1月16日

雑貨ビジネス要注意 まとめ編

数回にわけて書いた記事ですが、ここでまとめておきます。
一部修正しております。

私は渡米前に三軒茶屋のレンタルビデオ店でアルバイトをしていました。

そのビデオ店では同じ世代(大学生)のアルバイトがたくさんいて、Sくんは服飾系の専門学校を出てアルバイト生活をする私より1つ年上のおしゃれ達人でした。
あるとき彼は(私たちにとっては突然に)ディスコのDJを目指しはじめ、ビデオ店と時間が重なるため辞めていきました。
その後もちょくちょくお店に顔を出していたので縁が切れることはありませんでしたが...

渡米後半年以上経ってSくんから電話がありました。
何でも東京でメジャーなDJがニューヨークから帰ってきたときにアニエスべーの野球帽をかぶっていたそうで、調べたらアメリカのアニエスべー独自開発の商品とかで、他国では手に入らないとか...
それを買って送って欲しいという内容でした。

私は快諾し、翌日ソーホーのアニエスべーに出向きました。

その野球帽は 20ドル弱(だったと思います)で入り口付近に重ねて置いてありました。
野球帽としては高価でしたが、アニエスべーといえば当時松田聖子さんが家着として愛用しているといったことがきっかけで日本で大ブレイク。バブル景気がそれを後押しして一気に誰もが知るブランドへと成長した背景があり、そんなブランドの商品で日本では入手できないとなればSくんにとって税、送料、支払い手数料を含めると 5000円近くになったものの安い買い物だったのかもしれません。

一刻も早く欲しいというSくんの希望があったため、私はその足で郵便局に行き、エクスプレス便で発送しました。

2~3日後にはSくんからお礼の電話が入り、大変気に入ったようでよかったです。
その際に、友人が店長をしているブティックでこれを売りたいという希望があり、手に入るだけ送って欲しいと言われました。

アニエスべーの野球帽をビジネス(小遣い稼ぎ)にしようと考えたSくん。
20ドル弱の野球帽が8000円で売れるのだとか...
そこで、手に入るだけ全部買って送って欲しいと言います。

まだ彼に送った野球帽のお金ももらっていませんでしたが、1個分を送金するのも、100個分を送金するのも手数料はさほど変わらないからまとめて送金すると言います。

帽子を販売するお店からお金をもらったらすぐに送金するから何とかなるか?というので、
自分はクレジットカードを利用して、その請求が来るまでにお金があれば良いわけなので、1ヶ月以内に送金できるならOKだと返事しました。

普通はいくら友達でもお金の口約束はしないものだと思います。
しかし、自分にとってもひとつのチャンスなのではないか?と考えた私はSくんを信じてみることにしました。

翌日ソーホーのアニエスべーに行くと、残りの野球帽は15個でしたので全て購入し、それでは足りないのではと思いマディソンアヴェニューのお店にも出向きました。ところが、野球帽はソーホーでしか扱っていないということでしたので、その日のうちにエクスプレス便で15個発送しました。

また2~3日してSくんから電話がありました。
15個では即完売してしまって足りないから、もっと何とかならないかという内容でした。

彼がDJ見習いをしているディスコの常連客からの予約分だけで20、お店に置いてもらうのに30は必要ということで最低でもあと35個は欲しいということでした。

50個手配するということは個人にとっては結構な資金が必要になり、私もビビリ気味...

翌日アニエスべーに電話してみると次回の入荷予定は1ヶ月先で25個だと言います。
10個足りませんが、まだ一度も入金がないし、この程度にしておこうと思い、その25個を予約しました。

Sくんにはその旨を伝え、1ヶ月の間に予約を取りまとめて欲しいと頼んでおきました。
また、すでに送ってある品の代金はそれまでに送金することを約束しました。

~後日

アニエスべーから電話が入りました。
あの日から1ヶ月近い時間が経ったことの証でした。

25個入荷したけど他にも欲しいと言っているお客様がいて、いくつかでもまわしてもらえないか?と言われたため、1日待って欲しいとお願いし電話を切りました。

Sくんからは未だ送金はありませんし、電話もありません。

そこでこちらからSくんに電話してみると、もう15個は完売していると言います。
どうして送金がないのか?という問いに対しては、こういう返事でした。

 ・お店から強い希望があって予約客には待ってもらって全部お店に回した。
 ・買取では金額の折り合いがつかず委託販売形式でお願いした。
 ・お店には支払日というものがあり、次回支払日に全額もらえることになっている。

Sくんはしきりに「申し訳ない」を繰り返し、その支払日まで待って欲しいと言います。

しかし、私もカード会社からの請求がやってきますので、できる限りのことをしたいと思うものの、限度があります。

どうするのが良いかSくんと一緒に考えました。
結局、新たに25個送るから着いたらすぐに予約客に15個以上売って現金を確保し、それをこちらに送金するということで合意しました。

そして翌日私はアニエスべーに出向き、1個もまわせないと詫びを言って25個購入。
即郵便局から発送しました。

野球帽を25個発送してから3日経っても、4日経ってもSくんから連絡がありません。

しかし予約客に15個すぐに販売して、即送金と約束したし、ちょっと連絡がないからといちいち電話していたら電話代で儲けがゼロ、場合によってはマイナスになるからとこちらからは連絡せずにおりました。

ところが、そうこうしているうちにいよいよクレジットカードの請求書が届きました。
前にも書きましたが、支払いはパーソナルチェック(小切手)を郵送するため、現金の準備にはまだ少々の猶予があります。

仕方ないのでSくんに電話...
留守電... メッセージを残します。
翌日... 留守電... 事情を詳しく残します。
翌々日... 留守電... とにかく連絡をくれと残します。

しかし、Sくんから電話はありません...

いくらDJ見習いで帰宅が遅いといえ、朝方なら絶対につかまるだろうと更に翌日、日本が朝早い時刻に電話...

つかまりました! 完全に寝ぼけた声です。
とりあえず用意できるだけのお金を今日送金すると言いますが、重大なことがSくんの口から飛び出しました。

今回の25個は前回と形が違うから非常に不評で困っている。
予約客も「え~っ!こんな形のは要らない!」と軒並みキャンセルとなっているというのです。
何でも、前回分は形がおしゃれだったが、今回のものは野球少年がかぶる無骨な形で、もはやおしゃれアイテムではなくスポーツグッズだとのことでした。

おしゃれ達人のSくんは荷物を受け取ったときすぐにそのことに気づいたそうですが、それを私に伝える前に何とかしてみようと思って電話しなかったということでした。

しかし、売れなかったといって野球帽を送り返されても困ります。
私には必要ないものだし、Sくんの希望で手配したものですから、私の立場からはS くんが責任を取るべきとしかいえません。
Sくんにしてみれば、自分がお店に取りに行ったとき現物を確認していれば、形の悪さに気付いて買わなかったし、なぜ私にその判断ができなかったのか...が本音だったと思います。

二人で歪みあってもしかたありませんので、今後は何であれすぐに連絡が取れるようにとお願いし電話を切りました。

とにかくSくんに連絡が取れたことで一安心でしたが...それも数日のことでした。

Sくんから手紙が届きました。
先日の電話で約束した最初の支払いでした。
中には郵便為替が入っていました。
これで私もクレジットカード会社に支払いのチェック(小切手)を送れます。
よかった!
Sくん、ちゃんと約束守ってくれたんだ。

...ん?

為替に記載された金額がどうも足りません。
確かに用意できるだけのお金と言っていましたが...実際には100ドルほど足りません。

今回は何とかなるとしても、次回どうなるんだ...?

翌月に来る25個分の請求書の支払いが不安になり、Sくんにコンタクトを試みます。
電話、電報、手紙...と当時考えられるあらゆる手段を尽くしましたが、その後Sくんと連絡が取れることはありませんでした。
ビデオ店や、アルバイト仲間にも網を張っておきましたが全く駄目でした。

授業料としては高い出費となり、友人を一人なくしました。

最初の時点で断っていたら、今でもSくんと交流があったでしょうか?
Sくんは今どこで暮らしていて、この件を憶えているのでしょうか?
そして、実際あのときSくんには何があったのでしょうか?

今でもSくんが見つかればお金を返してもらって、本当の話を聞かせて欲しいと思っています。
当時の私たちには大変な金額でしたが、お互い中年になった今では絶対に払えない額ではないわけですし、以降のお付き合いはもちろんあり得ませんが、お互いに思い出にするためには払うものは払っていただかないと。(笑)

2008年1月15日

大好きだったWTC まとめ編

数回にわけて書いた記事ですが、ここでまとめておきます。
一部修正しております。

アメリカ映画の「ワーキングガール」ご覧になったことありますか?
内容は...忘れました。(笑)
でも、そこそこ面白い映画だったと記憶しております。

主人公(メラニーグリフィス)はスタテン島に住んで、マンハッタンの仕事場に通っていました。
その通勤手段に使っていたのが「スタテンアイランドフェリー」
黄色いボディのやつです。

このスタテンアイランドフェリーから見るニューヨークが私は大好きでした。

ロウワーマンハッタンの画像

実はこの画像はスタテンアイランドフェリーからの眺めではありません。(笑)
似たようなものってことで♪

すっきりと晴れた日には川の青と空の青が混じりあい、その間に浮かぶ要塞のように見えたマンハッタン。
要塞の左側にはWTC(ワールドトレードセンター)がそびえたっていました。

この景色こそが私にとってのニューヨークでした。

残念ながら今はスタテンアイランドフェリーに乗ってもそこにWTCはありません。
皆さんご存知のように2001年9月11日WTCは崩壊しました。

この崩壊に関しては色んな憶測がありますが、それについてどうこう言及するつもりはありません。
なくなったという事実はどうしようもありませんし。

WTCは7つのビルから成り立って... といった概要も割愛させていただきます。
興味のある方はグーグルで検索してくださいね。

私がWTCを好きだった理由は...
 ・親近感 : 私が生まれた年に工事がはじまった。
 ・スケール度 : 完成当時世界一の高さのビルを並べて2本も建てた。
 ・尊敬と憧れ : 背筋の伸びたビジネスマンを多数見ることができた。
 ・非日常 : 屋上の展望デッキは異次元空間だった。

タワー2には展望フロアがあり、有料でしたがすごいスピードの直行エレベータで昇ることができました。
そこから見る自由の女神の何と小さかったことか...

私は昼間に行くのが好きでした。

一度だけ夜に昇ったことがありましたが、夜景は圧倒的にエンパイアステートビルディングに軍配が上がりました。
何しろエンパイアは街のド真ん中で、WTCはマンハッタンの南端...水に囲まれた立地ですから仕方ありません。

そして!
タワー2にはさらに上の屋上展望デッキがあったのです☆
とても危険ですから、通路が作ってあってそこを歩くだけなのですが、デッキに居る人たちの話し声と風の音以外何も聞こえない大変不思議な空間です。屋上に設置してある機械の作動音もあったと思いますが、路上を歩いているときのノイズだらけの空間に比べたら異次元としか表現できません。

日頃レコーディングスタジオで超大音量の中に居た私にとってはこの上ない癒し空間でした。

そして展望台からはハドソン川の向こう側、ニュージャージー州の地平線を見ることができました。
ニューヨークでそれだけの距離の視界が開けるところは他にありません。(ロングアイランドとかの水平線ならありますけどね)
その「地の果て」を見ているだけでとても心が和みました。

さて、WTCの地下にはサブウェイが乗り入れていて、とてつもないエスカレータが設置されていました。
こんな感じです↓

ワールドトレードセンターの地下鉄エスカレーター

このエスカレータをサクサクと背筋を伸ばして昇り降りするビジネスマンを見ているのが好きでした。
私が住んでいたアッパーウエストサイドは商店が多く並ぶ地区で、どちらかというとカジュアルな服装で、ビジネスマンというよりは店員さんといった雰囲気の人が多く、スーツで仕事をしている人を見かけることはまずありませんでしたので、ある意味新鮮でした。

もちろん通学時の電車にはたくさんのスーツがおりましたが、電車に乗っているときの彼らは新聞を読んでいたり、抜け殻のようにボーッとしていることが多く、さながら昼間の動物園のようでした。

その点、WTCやウォールストリートをブラブラすると戦闘モードのビジネスマンをたくさん見ることができ、ナイトサファリのようでした。
「そっか。ここで戦うために電車では力を温存しているんだな...」と思わせるほどパワーがみなぎっていました。

私はミュージシャンとの交流が多く、ビジネスマンとの交流はほとんどありませんでした。
(日本人から見て)アマチュアミュージシャンの多くは「ビジネスマンは自分たちとは別世界の生物だ!」という見方をしていて、彼らを一まとめにして「スーツ」と呼びました。
その時点で社会的にはビジネスマンのほうがまともで、地道で、お金もあるので、「いつか見てろよ!」といった負けん気がアマチュアミュージシャンにそう言わせていたのでしょう。

実際にミュージシャンとして成功している人でビジネスマンのことを「スーツ」と呼ぶ人は少なかったです。

ところで、映画「ワールドトレードセンター」、ご覧になりましたか?

オリバーストーンは私が好きな監督の一人ですが、この映画ではどうもはじききれていないように感じました。
当然といえば当然かもしれませんが、そうやって何を伝えたいのか?を考える映画は好きではないので、トンチンカンなことを書くかもしれません。

WTCは予告なく突然姿を消しました。
そして予告なく突然に家族、恋人、友人の前から姿を消した人がたくさんいました。
もう一度WTCがそびえたつマンハッタンが見たいという気持ちの人たちがたくさんいる一方で、つらいこともたくさん思い出します。

そういう複雑な人の心理を均等に満たそうとするとああいう映画になるのかなあ?と思いました。

私はもう一度「あの」マンハッタンに会えるかもという思いでこの作品を観ました。
私にとってのマンハッタンはオープニングで晴々しく映し出されました。
私にはそれで充分でした。

私なりに整理がつきましたし、WTCのないマンハッタン(まだ現地で見たことはありませんが...)を受け入れることができました。
誰も失くしていないから無責任な発言かもしれませんね...

でも、私のようにWTCそのものが好きだった人間もいるわけで、自由の国アメリカはテロに屈することなく、シンボリックなビルを再建して欲しいです。

ワールドトレードセンターのツインタワー

2008年1月14日

季節外れですが...

何の予備知識もなく、ただロワーマンハッタンを散策中に見つけたもの。
足を止めて、しばし楽しみました。

が、翌年は完全に忘れてしまっていて見に行くこともなく...
今日このビデオを見つけるまで忘れていました。

確か、ものすごく寒くなってしまって、近くのデリでコーヒーを買って歩きながら飲みました。

2008年1月13日

日本企業の海外進出

松下電器産業がナショナルブランドを捨てるとか...
今使っている家電に National のロゴがついていると、一気に古くなった気がしますよね。

私のお気に入り電気シェーバーには National ロゴが...
Panasonic ロゴのシールくれっ!(笑)

っていうか、今まで松下電器産業株式会社が製造する製品に National と Panasonic のブランド名を与えて販売していたのが、今後は会社名自体が「パナソニック株式会社」になるとか。

会社名が変わるということはものすごい経費がかかります。
伝票、名刺... ありとあらゆる「松下電器産業株式会社」という活字を「パナソニック株式会社」に変更しなくてはなりませんからね。
内需拡大に貢献しそうです。

私が渡米した頃、アメリカで販売されている松下製品には Panasonic ブランドが使われていました。
当時は日本国内では一部のオーディオ機器くらいにしか使われていなかったので、Panasonic のテレビには「おーっ!」と思った記憶があります。

どーでもいいですよ♪

さて、皆様ご承知の通りレクサスはもともとトヨタの海外向けブランドだったわけですが、あれが登場したのも私がアメリカにいた頃で、はじめて見たのはワシントンスクエアに路駐していたソアラでした。
それ以前にアメリカで販売されていたトヨタ車はカムリとか、庶民の味方的なラインナップだったので、そのまま高級車を販売するには無理があるという見解でブランドを分けたってことでした。
同じように日産は「インフィ二ティ」で高級車を販売しました。

これも、どーでもいいですよ♪

DENON はずっと DENON ですが、日本では「デンオン」でした。
...が、海外で「デノン」と呼ばれるため、国内の呼び名を「デノン」に変更しました。

もっと、どーでもいいですよ♪

その点すごいなあと思うのはソニーです。
社名変更しているには違いありませんが、売れてきたからソニーに変更したわけではありません。
そのへんは盛田さんの著書に詳しく書かれていますので、興味のある方は読んでみてください。

今はわかりませんが、私が在米時に友人たちに訊いた範囲では、日本の家電メーカーで一番メジャーなのは SONY でした。

先日テレビで佐藤ゆかり議員がこういっていました。
「企業の格差は海外進出できているか否かで大きく分かれている」
それは格差の原因と結果のグルグルめぐり、卵が先か鶏が先か...のような気もしますが...

日本の名称って世界的には特殊ですから、より認知されやすい名前でやっていこうというのは理解できます。
ただ、西側に寄りすぎると Made in Japan の印象が薄くなる気もします。
MIKIMOTO なんて、そのまま世界中で知られた企業で、モーレツに Made in Japan をアピールしています。

しかし、どうして海外の日本食レストランはあそこまでコテコテに和なんでしょうね?