グランド・セントラル・ステーション その6
* こちらに1902年の鉄道事故についてのまとめ編をアップロードしてありますのでどうぞ♪
前回のエントリーでグランドセントラルについての英文を和訳させていただきましたが、その文章がサラっとしたもので大きな流れしかわからず、多分アメリカで生まれ育った人たちにはそこそこ知られていることなんかはザックリ書いたんじゃないか?と逆にそのザックリの裏側に興味が沸いてしまって、あれこれ調べてみました。
すると、もうちょっと詳しい当時の状況や、一人の切れ者エンジニアの功績が書かれた記事を見つけましたので、今回はそれをご紹介します。
では、いってみましょう!
...って、勝手に熱くなってすみません。
m(_ _)m
元々のグランドセントラル駅の操車場は43丁目から49丁目の6ブロック分となっており、5番街の49丁目以北は4車線が平行に走っていました。
1871年操車場が完成したとき、すぐに問題が発生しました。
毎日104本の汽車がグランドセントラルに乗り入れるため何十もの切り替えトラックが備えられ、すべてが人が歩く通りと同じ地上に設置、運行されていました。
蒸気機関車、客車、線路の複雑なもつれ具合は、歩行者に大きな危険となって立ちはだかりました。
ラッシュ時には3分に1本もの割合で蒸気機関車が地上を往来しました。
汽車はうるさく、汚れていて、何より危険でした。
そしてニューヨーク市があれこれと対策を打つも、問題は悪化するばかりでした。
結局、1875年にグランドセントラルは4番街の地下に線路を移設することに同意しました。
49丁目から56丁目にかけて、4本の線路はオープンカット方式(地下に線路を敷くものの天井は作らない)で、街を横切るための橋がその上にかけられました。
56丁目から96丁目にかけては線路は覆いかぶされ、蒸気機関車が吐く煙を逃がすベンチレータが設置されていました。(Vanderbilt氏はこの対策に市が工事費6百万ドルの半分を負担することに同意するまで動きませんでした。)
しかしその通気孔は気休めにしかなりませんでした。
トンネルの中は煙たく、暑く、汚く、特に朝のラッシュ時は最悪でした。
よって、パークアヴェニュートンネルの通気孔は灰を撒き散らす煙突と化しました。
ニューヨーク史上最悪の列車事故である1902年の事故が起こる頃には、ニューヨーク州、ニューヨーク市の両者がこの問題にはうんざりしていました。
そして、事故をきっかけにハーレムリバー以南への蒸気機関車の乗り入れを禁止してしまったのです。
当時鉄道局のチーフエンジニアだったウイリアム・ウイルガス氏が壮大な計画の青写真を描き出したのはその頃でした。
彼の計画はニューヨークセントラル社(現在のニューヨークセントラルラインズ)が所有した土地の約20万平米の掘り起こしを必要としました。そして、地下13~18メートルの深さに線路を埋め込もうというものでした。
列車の需要が高まるにつれ、ウイルガス氏は二つのターミナルを二層構造で建設する計画に膨らませていきました。
下の階層~マンハッタンの地盤である岩部分にまで達する~は通勤客などが利用する短距離線を、その上には長距離線を配置しようというものでした。
その壮大な計画はマンハッタンのミッドタウンとパークアヴェニューの再開発を意味し、ウイルガス氏の見積もりによるとニューヨークセントラル社は4千万ドルの資金を必要としました。
4千万ドルはニューヨークセントラル社の半年分の収益に匹敵しました。
(実際には2年の間にコストは7千万ドルに膨れ上がりました)
想定外の大金を支払うためにウイルガス氏はパークアヴェニューの道路舗装が完了した後にターミナル一帯の空間所有権の長期リースを提案しました。
これにより、リース契約をした開発業者はビルを建設することができました。
ウイルガス氏はこれを「空からの恵み」といい、グランドセントラルに必要な経費をグランドセントラルがまかなうことに成功しました。
以上です。
パークアヴェニューが他に比べて道幅が広いこと、グランドセントラル以北のパークアヴェニュー沿いの建物の高さが均衡しているのにはちゃんと理由があったのですね。
今更ながらひとつスッキリしました。(笑)
ところで、1902年の事故とはどのようなものだったのでしょうか?
次回そこをもう少し掘り下げてみようと思います。



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