2007年12月31日

勝手に広まる良い習慣

ある日お世話になっていたプロデューサーの家にお邪魔すると...
"Katz, Take your shoes off." (靴脱げよ)

「どうしたの?」と訊くと...

私のアパートでいつも靴を脱いでもらっていたら、「それが当たり前のこと」と思えるようになったそうです。
それまでは何の疑問ももたなかったものの、考えてみればドコソコかまわず歩き回った靴でカーペットの室内に入るなんて、汚すぎる...ということでした。

思わぬところで人に影響を与えてしまいました。(笑)

というのも、私は本当はソファを置いて靴の暮らしがしたかったのですが、そのためにはテレビ台、テーブル、ソファ...と買うものがたくさんあり、気に入ったものが見つからないまま月日が過ぎてしまったのが実際のところなのです。

仕方なく床生活をしていたら、実は快適な暮らし方として他人に参考にされてしまったというわけです。

結局、階下の女性も靴下&床生活になりましたし、良いことはお薦めしなくても勝手に広まっていくんですね。

2007年12月30日

日本人花嫁失踪事件

1992年12月シドニーの免税店DFSにて日本から来たハネムーンカップルの新婦が行方不明になりました。
当時オーストラリアは治安の良さを売りものにハネムーン客にものすごい人気がありました。
この事件がきっかけで日本からの観光客が減少することを危惧したオーストラリアは花嫁の捜索に躍起になりました。
残された新郎はテレビ出演し、「帰ってきてくれ~」と訴え、世間の同情を引きました。
結局新婦は計画的に他の男性ともうひとつのハネムーンを楽しんでいたという話です。

当時私はシドニーにいたのですが、研修期間中で、会社の指示により支店にいた香港人マネージャー宅にホームステイでした。
とても良くしてもらったのですが、食事が私には合わなくて...
何かと口実を作っては外食後帰宅するようにしていました。
リビングにいると色々と気を使われてしまうので、私は自分の部屋にこもるようになりました。
3ヶ月間のことだと思えばさほど苦にもなりませんでした。

そういう生活だったので、実は日本人花嫁が失踪して大変なことになっているなんて全く知りませんでした。
会社でも誰もその話をしませんでしたし、恐らくオーストラリアではさほど大きなニュースにならなかったものと想像できます。
日本のマスコミがオーストラリアでも大騒動になっていると大袈裟な報道をしたのでしょう。
よくあることです。

私が事件を知ったのは随分後のことで、シドニーの知人から聞かされました。
当人たちは帰国後日本で吊し上げに近い会見をしたそうですが、オーストラリアではもみ消されるような形でマスコミがフェードアウトしていったようです。

当時オーストラリアに住んでいた日本人はかえって事件の真相を知らないようでした。
私が聞いたのはこういう話でした。
「何でも新婦は昔ワーキングホリデーでオーストラリアにいたらしい。そのときに交際していたオーストラリア人男性とシドニーで落ち合う約束をしてシドニーの北方面近郊のリゾートでよろしくやってたらしい...」

私はずっとそう思っておりました。

それにしても、日本のマスコミの対応とオーストラリアのそれには大きな差があったわけですが、国民性を象徴しているようで興味深いです。
もちろん日本は迷惑をかけた側なのでわかる部分もあるのですが、記者会見なんて必要だったのか...個人的にはよくわかりません。
江戸時代の日本はボヤで終わったとしても付火をした者は死刑と決まっていたそうですが、その感覚が今の日本人の心の奥底に残っているのでしょうか。

ただ、オーストラリアでは1997年にこの事件をモデルにした映画を公開しています。
主演はラッセルクロウと工藤夕貴で、タイトルは「へヴンズ・バーニング」です。
オーストラリア版ボニー&クライドとでもいいましょうか...
失踪事件を忠実にドラマ化したものではありません。

1992年12月といえば、「もうすぐインターネットってものが...」という時代でしたから真実が埋もれてしまったこともあるでしょう。
今オーストラリアの新聞社のサイトやテレビ、ラジオ、一般ニュースサイトなどどこを見ても記事は見当たりません。(5日間検索した結果ですが...)
日本のサイトでは、時期すら正確に書けていない記事ばかりで、信憑性に欠けています。

「そういえばあんな事件があったっけ... 知らないことだらけだし調べてみるか...」
が、検索の始まりでしたが、なんだか途中でバカバカしくなってしまいました。
日本のサイトにあるのは新婦の容姿をイジル記事ばかりで、さんまが真似しただの実にクダラナイものばかり。
しかも憶測と推測の塊でしかなく、欲しい情報は何も取れません。

同じようにこの事件のことを調べる人の少しばかりのお役に立てればとこのエントリーを書きました。
私は話の筋は分からずじまいでしたが、時期は1992年12月です。

2007年12月29日

海外駐在員というもの まとめ編

2回に分けて書いたエントリーでしたが、読んでいただきやすいようにこちらでまとめておきます。
一部修正と書き足しもあります。

「海外で仕事をしてみたい」と考える人はたくさんいると思います。

方法は2通りあります。
① 日本で就職し、その会社の海外支店、関連会社に派遣される。
② 海外に行ってしまってから就職活動をする。

もうひとつ、海外に行って起業するという方法もありますが、私には経験のないことですので何も書けません。
m(_ _)m

さて、私のオーストラリア行きは①でしたが、日本人観光客の海外旅行を手配する会社でしたから、他の業種に比べれば遥かに海外に出れる可能性の高い会社でした。
一般的にはそうそうチャンスが回ってくるものではないでしょう。

私の知人の中にはたくさん②を成し遂げた人たちがいますが、これはとても難しいことです。
一般に「ローカル採用」「ローカル社員」などと言われます。
そして収入面、待遇面ではどれだけがんばっても駐在員にかなわない側面がありますので、高いモチベーションを維持しつつ、同じ条件のはずの現地人よりクオリティの高い仕事をしていかなくてはならない、大変な立場です。

他の現地人スタッフと同じ条件で雇用されているはずなのに、「日本人だから」頼まれやすく、「日本人だから」結果を期待されます。

一方駐在員は、住宅補助があったり、給料が日本と赴任先とのダブルで出たり、条件は会社によってそれぞれですが一般的にローカル社員より優遇されます。
仕事的にも現場でバリバリやるというよりは、ローカル社員への指示、監督が業務のほとんどとなります。

しかし、駐在員はいつどこに移動になるかわからない中で仕事、生活をしていかなくてはならず、本人にしてみれば「地に足のついていない」生活だともいえると思います。
日系企業の場合、3年をひとつの区切りとする風潮があり、駐在員も在任期間が3年に近づくとまわりからも「そろそろ移動ですかね」と言われるようになります。
そして移動命令が出るのですが、次の赴任先を自分で選べるわけではありませんので、西洋文化圏で仕事をしたいと思っても、実際にはそうならないこともあるでしょう。

ですから、何かひとつの仕事に打ち込みたい、何かを成し遂げたいという志を持った人が駐在員になるとフラストレーションが溜まります。
任期が3年あるとしても、赴任後すぐに全力疾走できるわけもなく、家族がいたりすると新しい環境に適応するのに半年かかってしまうこともあるでしょう。
すると落ち着いて仕事に専念できるのは2年半しかありません。
そして移動...
その繰り返しです。

一般的に2年半という時間は、何かひとつの仕事に打ち込む、何かを成し遂げるには短いように思います。
差し詰め前任者から受け取ったバトンをそつなく後任者へ繋ぐのが限られた時間でできることかもしれません。

というわけで、自分は海外でこういう仕事がしたいといった明確な目標がある人は「ローカル採用」を考えてみてはいかがでしょうか?

採用までの難題をクリアすれば...
 ・自分の希望する国で働ける
 ・現場仕事に打ち込める
というメリットがあります。

反面、忘れてはならないのは自分の待遇と駐在員の待遇を比較しないことです。
そして、それは自分だけでなく家族にもいえることとなります。
自分も家庭を持ち、家庭持ちの駐在員が赴任してきた場合に、妻同士、子供同士のつきあいが少なからず出てきます。
赴任したばかりの駐在員の家族は右も左もわからない場合が多く、同じ日本人だということで何かと頼りにされるので、「最初からつきあわなければいい」とはまいりません。

では、その差がどのようなものかと言いますと...
例えば、先日テレビで観たのですが、イタリアのフィレンツェの平均年収は東京の約半分だそうです。
ということは、○○商事フィレンツェ支店の駐在員はローカル採用社員の2倍の給料を貰っていて普通で、そのうえ住宅補助や現地の保険代、場合によっては所得税現地徴収分の会社負担などの優遇があるので、実際には2倍以上の差となります。

これはもう、明らかに生活レベルが違うことになります。
自分は中古のフィアットを何年も乗っているのに、駐在員はメルセデスやBMWあたりのステーションワゴンを新車で購入ということもあるでしょう。
休日の過ごし方も違うでしょう。

駐在員が自分と同い年だったり、年下だったりすれば、尚更自分の立場に迷いを覚えるかもしれません。

そういう現実を左に受け流すことができれば、ローカル社員として海外で暮らすことで人生をより楽しめるかもしれません。

若いころに「海外で仕事したい」と計画した場合、ワーキングホリデーで渡り、バイトで認められて社員に...というのがひとつの道になると思います。
運良く、そして努力が実ってその環境を手に入れることができても、ここで私が書いたような現実もあるということを最初から理解していないと、いずれ別の道を模索しなくてはならなくなります。

若いうちは自分で自分を若輩者として受け止められるので特に気にならないと思いますが、自分が30代になると、20代の駐在員が来たりしますので、自分より若い者に使われることを「気に入らない」と感じてしまう人にはいずれ無理がくるでしょう。

それから日系企業とはいえ、海外支店は別会社(現地法人)ですから、退職金がない場合がほとんどです。

駐在員の場合にも注意点はあります。
引越し貧乏には特に注意しなくてはなりません。
赴任先で贅沢が身についてしまうと、日本に帰ったとき「何でこれだけしか貯金がないの?」ということになりかねません。

例えば私の場合、赴任後すぐにクルマを購入。
銀行のオートローンを利用しました。
移動命令が出て、クルマを処分しなくてはならなくなりました。
次のクルマを買う予定はないので「下取り」ではなく「買取り」となるわけで、当然査定額は「下取り」の相場を下回りました。
時間がないので委託販売もできません。
こういう場面で買い叩かれるのは古今東西を問わず世の常です。
結局購入したディーラーに買い取ってもらいましたが、ローンを完済するのに別途100万円の現金が必要でした。

日本に持ち帰ることも考え調べてみましたが、安くすむ方を選んだ結果、処分となりました。

私はアパートにカーテンすらつけず、会社から支給されたベッドとチェスト以外何も持たず、皿の一枚もありませんでしたから、その程度で済んだといえるかも知れません。

2007年12月28日

海外駐在員というもの その2

こちらにまとめ編をアップロードしてありますので、どうぞ♪

前回の続きです。
その1を少々修正しましたので、修正後の流れで書いていきます。

というわけで、自分は海外でこういう仕事がしたいといった明確な目標がある人は「ローカル採用」を考えてみてはいかがでしょうか?

採用までの難題をクリアすれば...
 ・自分の希望する国で働ける
 ・現場仕事に打ち込める

ただ、忘れてはならないのは自分の待遇と駐在員の待遇を比較しないことです。
そして、それは自分だけでなく家族にもいえることとなります。
自分も家庭を持ち、家庭持ちの駐在員が赴任してきた場合に、妻同士、子供同士のつきあいが少なからず出てきます。
赴任したばかりの駐在員の家族は右も左もわからない場合が多く、同じ日本人だということで何かと頼りにされるので、「最初からつきあわなければいい」とはまいりません。

では、その差がどのようなものかと言いますと...
例えば、先日テレビで観たのですが、イタリアのフィレンツェの平均年収は東京の約半分だそうです。
ということは、○○商事フィレンツェ支店の駐在員はローカル採用社員の2倍の給料を貰っていて普通で、そのうえ住宅補助や現地の保険代、場合によっては所得税現地徴収分の会社負担などの優遇があるので、実際には2倍以上の差となります。

これはもう、明らかに生活レベルが違うことになります。
自分は中古のフィアットを何年も乗っているのに、駐在員はメルセデスやBMWあたりのステーションワゴンを新車で購入ということもあるでしょう。
休日の過ごし方も違うでしょう。

駐在員が自分と同い年だったり、年下だったりすれば、尚更自分の立場に迷いを覚えるかもしれません。

そういう現実を左に受け流すことができれば、ローカル社員として海外で暮らすことで人生をより楽しめるかもしれません。

大体そうして海外で暮らすことを考えるのは若いうちのことでしょうから、ワーキングホリデーで渡り、バイトで認められて社員に...という青写真を持つ人がほとんどだと思います。
運良く、そして努力が実ってその環境を手に入れることができても、ここで私が書いたような現実もあることを最初から理解していないと、いずれ別の道を模索しなくてはならなくなります。

あ、それから日系企業とはいえ、海外支店は別会社(現地法人)ですから、退職金がない場合がほとんどです。

2007年12月27日

海外駐在員というもの その1

こちらにまとめ編をアップロードしてありますので、どうぞ♪

「海外で仕事をしてみたい」と考える人はたくさんいると思います。

方法は2通りあります。
① 日本で就職し、その会社の海外支店、関連会社に派遣される。
② 海外に行ってしまってから就職活動をする。

もうひとつ、海外に行って起業するという方法もありますが、私には経験のないことですので何も書けません。
m(_ _)m

さて、私のオーストラリア行きは①でしたが、日本人観光客の海外旅行を手配する会社でしたから、他の業種に比べれば遥かに海外に出れる可能性の高い会社でした。
一般的にはそうそうチャンスが回ってくるものではないでしょう。

私の知人の中にはたくさん②を成し遂げた人たちがいますが、これはとても難しいことです。
一般に「ローカル採用」「ローカル社員」などと言われます。
そして収入面、待遇面ではどれだけがんばっても駐在員にかなわない側面がありますので、高いモチベーションを維持しつつ、同じ条件のはずの現地人よりクオリティの高い仕事をしていかなくてはならない、大変な立場です。

他の現地人スタッフと同じ条件で雇用されているはずなのに、「日本人だから」頼まれやすく、「日本人だから」結果を期待されます。

一方駐在員は、住宅補助があったり、給料が日本と赴任先とのダブルで出たり、条件は会社によってそれぞれですが一般的にローカル社員より優遇されます。
仕事的にも現場でバリバリやるというよりは、ローカル社員への指示、監督が業務のほとんどとなります。

しかし、駐在員はいつどこに移動になるかわからない中で仕事、生活をしていかなくてはならず、本人にしてみれば「地に足のついていない」生活だともいえると思います。
日系企業の場合、3年をひとつの区切りとする風潮があり、駐在員も在任期間が3年に近づくとまわりからも「そろそろ移動ですかね」と言われるようになります。
そして移動命令が出るのですが、次の赴任先を自分で選べるわけではありませんので、西洋文化圏で仕事をしたいと思っても、実際にはそうならないこともあるでしょう。

ですから、何かひとつの仕事に打ち込みたい、何かを成し遂げたいという志を持った人が駐在員になるとフラストレーションが溜まります。
任期が3年あるとしても、赴任後すぐに全力疾走できるわけもなく、家族がいたりすると新しい環境に適応するのに半年かかってしまうこともあるでしょう。
すると落ち着いて仕事に専念できるのは2年半しかありません。

その繰り返しです。

今回はここまでです。
この続きは次回書きます。

2007年12月26日

レスポールのライブ

バンド経験のある方、また自分で楽器を楽しんでいた方なら「レスポール」ってご存知ですよね。
ピンとこない方でも、この形を見れば「普通のエレキギター」としてご存知かと...
ギブソンレスポールスタンダード

1952年にアメリカのギブソン社から発売されたエレキギターなんですけど、このギターを開発したのが レス・ポール というアメリカ人ギタリストで、彼の名をとってレスポールモデルとして世に出たものです。

さて、このギタリストのレスポール、まだ現役です!
1915年生まれですから、2008年6月には93歳になります。

実は、私の在米中(確か1991年)にブルーノートで単独ライブがあり、これを観ておかないともう無理になるかも...などと不謹慎な動機で、ちょうど日本から遊びに来ていた後輩と出かけました。

生で見るレスポールは「じっちゃん」といった感じの風貌で、ハツラツとヨボヨボの微妙なバランスがなんとも不思議な印象でした。
ステージに上がり、椅子に腰掛け、演奏を始めるとハツラツとし、ステージを降りると普通のヨボヨボのじっちゃんでした。

ステージ上の彼は昔のジェントルマンといった感じで、彼らの世代の女性たちは「かっこいい~!」ってまいっちゃうんでしょうね、きっと。
バリバリ格好つけてて、時代に合わないんだけど、ちゃんとその「ええカッコ」が板についてて決まってるのです。

速いパッセージの前には右手の人差し指で軽く合図し、観客に「ほら、もうすぐ見せ場だよ」と知らせます。
そして深く息を吸い込み、息を止めて一気に弾きあげます。

私と後輩はかぶりつき席を陣取り、1時間ちょっとのショーを堪能しました。
私たち以外の観客はほとんどじいさん、ばあさんで、とてもリラックスした温かみのある素敵なショーでした。

帰りのタクシーで後輩と「もう観れることはないよね」と不謹慎な会話をしたのを覚えています。

それから16年経った今、レスポールは未だ現役であのときより若々しくなっています。
スゴスギス。

ご参考まで、レスポールのサイトです。
» Les Paul Online

2007年12月25日

省略文化の違い

メリクリ!

数年前から普通に使われてますよね。
誰が言い出しっぺかはわかりませんが、私が初めて聞いたのは「假屋崎省吾」さんだったような気がします。

こういう言葉の省略の仕方は日本独特の文化かもしれません。
もうすぐやってくる「あけおめ」、誰でも知ってる「キムタク」、「ドリカム」...
そもそも「パソコン」だって「ブログ」だって省略されたものですよね。

アメリカではこういうのはほとんど気がつかなかったです。
パンナムくらいしか思いつかないです。
アメックスは通じたけど、一般的にはアメリカンエクスプレスって言われていました。

でも私たち日本人はアメリカ人の名前さえ「ブラピ」です。

アメリカの場合は単語の頭文字をアルファベットでつなぎます。
教科書にも出てきた「asap」なんかは、もっとも有名な省略英語のひとつですね。

マクドナルドはアメリカでは完全にマクドナルドであって、マックでなければ、マクドでもありません。

わざわざ言葉を足して、俗語っぽくすることはありますが、音を抜いて省略することはまず聞きません。

ところが今年赤丸急上昇したKYに代表される新しい日本人の省略文化がアメリカに近づいたじゃないですか!
今の高校生が海外進出する頃が楽しみです。

2007年12月24日

自分流日本人定義の必要性について

海外で暮らして、日本人でない友人ができ、彼らとある程度親しい関係になると、一度は宗教のことを訊かれるものです。

「あなたは?日本人全般的には?」

私の場合は、はじめて階下の女性にこの質問をされたときに
「仏教だよ。クリスチャンもいるよ。」としか答えられませんでした。
彼女はそれ以上訊きませんでした。

お粗末...
小学生の容姿でこの回答なら恐らく許されるでしょうが、現場の私は質問に回答するという命題だけで目一杯になり、回答の質まで頭を使える余裕がありませんでした。

なので、あれがお粗末なことだったと自分で気付くのはずっと後になってからでした。

私が知る限り、「自分の宗教への理解度の低さ」において日本人はかなり下位、特に先進国中で軽く最下位なんじゃないかな...と自分を棚に上げるわけですが、いかがでしょうか。

これから海外で暮らす計画のある方は、少なくとも自分の宗教のこと、日本人とは?というテーマで、自分なりの考えをまとめておくことをお薦めします。
それが正しい、間違っているなんてことは問題ではありません。
「私はこう思う」という意思が必要です。

と書いた後、自分の場合は...と続けるととても生意気な感じになってしまいますよねぇ...
まいっか。

「当時の私」はこう答えることにしました。

私は無宗教です。
実際にはファミリーで仏教のお寺にいくので、仏教なのですが、自分が仏教徒だと言えるほど仏教のことを知りません。
今の平均的な日本人は、神の子としてこの世に生を受け、キリストの前で結婚し、死んで仏となります。
そういう意味で多くの日本人は無宗教なのです。

こんな理屈っぽいことを人さまに言うことを恥ずかしく感じますが、当時の相手は皆真剣に聞いてくれました。(笑)

ところが、最近になって...
実はそれこそが聖徳太子が求めた世界だったという、堺屋太一さん原案のテレビ番組を観て、大変驚きました。
そこまで付け加えて自分の言葉で言えていたら、もっと彼らに印象深く聞いていただけたと思います。

「いいとこどり」の思想というそうですが、垣根を取り払って世間を広く見渡し、自分が良いと思うものは素直に、積極的に取り入れる...ということ。

今の世の中を太子が望んだものだとは思えませんが、少なくとも宗教のいいとこどりはできていますよね。

ところで、小学校の歴史で学んだ遣隋使ですが...
アポなしでいきなり訪れ、言葉はどうしたんでしょうか?
隋と倭はそのまま筆談が通用したってことなんですか?
神話と実話の境目ってどこなんでしょうか?

調べてもさっぱりわかりません。
学校では断言する形で教えられてたはずなんですけどね。
調べると何も断言されていないんですよね。

2007年12月23日

24 Ⅴ

私が暮らしている三重県の伊勢湾側は名古屋ベースのテレビを見ています。
フジテレビ系の東海テレビで今「24」のシーズン5を深夜に連続放送中で、私は当然はまっています。

シーズン1~4は DVD をレンタルして見たのですが、シーズン3を観ているころに、「レンタル代結構高いじゃん!」と当然のことに気づいてしまい...
なにしろ12枚レンタルしないと話が終わらず、単純に映画の12倍お金がかかりますし、24 は途中でやめてしまえるほどユルいストーリーではないですからね。第1巻をレンタルしたら最後...しかも一日に3枚、4枚くらいのペースではまってしまいます。

シーズン4のレンタルが始まったとき、「レンタルするかしないか二つに一つじゃ」と自分に言い聞かせ、数度の葛藤の後に結局観てしまいましたが、シーズン5は自己抑制が勝りました。

だから新聞のテレビ番組表でこれを見つけたときは声を上げて喜びました。

...しかし、音声が日本語吹き替えなんですね。
無料なので文句は言えません。

つまり私は初めて 24 を日本語で観ているのですが...
「なんでジャックはあんなにキレまくってるのですか?」
「シーズン1からずっとあんな調子ですか?」

それまで観てきたジャックのキャラとあまりに違うので、困惑しています。
すべて命令口調だし、怒鳴ってるし...
登場キャラの中でジャックだけが浮いてしまっています。

翻訳は難しいと以前のエントリーで書きました。
通訳はもっと難しいです。

最近その理由がわかった気がしています。
それは自分の考えや気持ちを他人に伝えるわけではないからです。
他人の言葉を第三者に伝えることが翻訳、通訳の意味であって、自分の気持ちや考えを相手に伝えるのとは根本から違います。

映画(24はテレビドラマですが...)の吹き替えという仕事には、さらに演技まで含まれてきます。
翻訳をする人は正確にわかりやすくを第一に仕事をするでしょうし、吹き替え俳優はその台本をもとに着色...
よくわかんないですけど、そういう流れなんでしょうね。
で、その役者に道筋を外させないようにプロデューサー、ディレクターがいるわけですよね、きっと。

じゃあ、このジャックのキレすぎは誰の問題なんでしょうか?
俳優の暴走?
プロデューサー、ディレクターの意向?

テレビで無料で観ているので文句を言えた立場じゃないんですけど、あれは残念です。
キーファー・サザーランド と カンニング竹山 が同列で語られてしまうほど、キレすぎじゃないですか?

でもひとつだけ文句言わせてください。
「東海テレビさん! 24 ⅴ TWENTYFOUR FOUR ってローカル色豊かなバナーをだしていらっしゃいますが、あなたたちが今放送しているのは FOUR じゃなくて FIVE ですよ。」
ってここで書くだけではどうしようもないので、今から東海テレビのサイトにカキコしてきます。
m(_ _)m

2007年12月22日

国際カップル

ニューヨークほどの国際都市になりますと国際カップルも珍しくはないのですが、そこらじゅうにゴロゴロしているほど多くもありません。
逆に考えると、ニューヨークですらその程度だから、田舎に行けばほとんど見られないのでは?ってことです。
実はこれ、「種の保存」が私たち人間の本能として刻まれているからだそうです。

確かに私の交友範囲では、白人は白人、黒人は黒人、アジア人はアジア人でカップルが成立していました。

そんな中でも街でよく見かけた国際カップルは白人男性と中国人女性。
正確には中国系アメリカ人女性。
中国人の風貌をもったアメリカ人なので、中国の風習、アメリカの風習、どちらも理解していて、彼氏の言い分としても「好きになった人が中国人だっただけ」に説得力を持たすことができます。

ところが、ところが...

この白人男性が、この中国人女性と別れた後、別のアジア系女性とカップルになる確率はすごく高いのです。
簡単に言うと、結局彼は「アジア女性好き」なのです。

この件につきましては、ごく普通のアメリカ人男性たちと話して色々と情報収集したのですが、残念ながらここでは書けません。
そういう趣旨のコラムではありませんので、ごめんなさい。

さて、日本人男性と白人女性のカップルはほとんど見られませんでした。
私が覚えている限り一度も見たことがありません。
ただ、同じクラスの日本人がイタリア人女性と同棲していると聞いたときは、影で他の日本人たちと「クッソー、羨ましすぎるぜ...」と意味不明なことを言って楽しみました。(笑)
別に誰も本気で羨ましかったわけではありません。

日本人男性は海外にいても日本人女性を求めております。
んじゃあ、最初から海外行くなよって話なんですけどね。

どうして、こんなことを書いたのかといいますと、Google 検索中にこんなサイトを見つけたからです。
「私の彼はカナディアン。同じようにカナディアンの彼を持つ日本人女性がここに集まって、悩みを共有したりしませんか?」
読み進めていくと...
「英語も上手く話せなくてもどかしい思いをするし...」

この女性はカナダ在住なのでしょうか?
だったら良いのですが、もし日本在住でカナダから来た人とつき合っていらっしゃるなら、とってもお気の毒です。
男性が何人であろうと、日本で暮らしているなら日本語でつき合うべきと私は個人的に思います。
そうすることが彼のためになると考えるからです。

それから、もしカナダ在住の場合...
「カナダ人の彼氏を持つ日本人女性会」も良いですが、それ以前に「もどかしい思い」をしなくてすむように、死ぬ気で英語を勉強してください。
あなたの彼氏も自分がどこまで理解されているのかもどかしく感じているかも...ですよ。

そんなわけで、これは私が在米中のときから感じていたことですが、国際カップルにはたくさんの試練、壁があり、相当の意思と気持ち、そしてそれを成し遂げる努力がないと関係を維持していくのは難しいです。

2007年12月21日

使える英語 その13

12月25日までに投函すれば元日に配達されるそうですね、年賀状。
ここ何年も大晦日に投函してきた私ですが、今年はちゃんとできそうです。

ところで、"Happy New Year" と英語で書くとき、頭に "A" をつけるのは間違いですので、どなたの役に立つかはわかりませんが書いておきます。

私も何度もこの「ミスあり年賀状」を出したことがあります。
m(_ _)m

一言完結の場合は、"Happy New Year"
文章で書く場合、"Have a happy new year" など
が正解です。

そうなのです。

We wish you a merry Christmas ♪
We wish you a merry Christmas ♪
We wish you a merry Christmas ♪
And a happy New Year!

って歌がありますよね。
"We wish you a merry christmas and a happy new year."
は文章の中で出てくるので a がついてて正解です。
海外のクリスマスカードで使われるポピュラーな文章です。

実は私たち日本人は、わかってるんです。
ただよく見ていないだけなんですね~。

だって、
A happy new year ってことは、
A merry christmas と文法的に同じなわけですが、
だれも "A merry christmas" とは言いませんよね♪

ということは、わかってんですよね。

今年の年賀状を "A Happy New Year" で用意しちゃった人は
空いているスペースに
"wishing you" などを足して正当化しましょう!

2007年12月20日

味噌汁は海外で自慢できるのか?

昔々のことですが、テレビで「味噌汁は世界3大スープのひとつだ」と聞きました。
そして、「こんなに簡単に作れて、誰もが均等に一定レベルを再現できるスープは他にない」と言っておりました。

当時の私はそれを一人の人間の個人的意見だと判断できる能力がなく、「へえ~、そうなんだ☆」と額面通りに受け取りました。

Google で 「世界3大スープ」 を検索してみるとなかなか面白いですよ。
お時間のあるときに是非、遊んでみてください。

恐らく多くの人が察するように、個人的嗜好の問題ですから、色んな意見が出てきます。
ただ、一般的には「ブィヤベース」「フカヒレ」「トムヤンクン」などと言われるようです。

ところで、味噌汁は世界3大スープのひとつだと信じて海を渡った私...
結果はどうだったかといいますと...

あまり好まれませんでした。

日本人の手前、悪くは言えない...
でも美味しい... おいしい? ん~...おいしいか?

そんな感じが一般的でした。

「ああ、寿司を食べに行ったら勝手に出てくるあれだろ!?」
程度の扱いなんです、きっと。

一度階下の女性に私がつくったインスタント味噌汁を飲ませたことがあります。
もちろん生ミソタイプですよ。

「どう?」と訊く私に
「サカナくさっ」と答えました。
で、少し落胆する私を見て 「でもおいしいわ」 と付け加えました。

2007年12月19日

ちょっと気になるCMの英語

最近その英語が気になるテレビCMが2本あります。

花王のアジエンスとニコンです。

アジエンスはチョン・ビヒョン版で
"As long as you wish to be beautiful, you will be beautiful."

ニコンはキムタクとバーテンの会話
"Is that a Nikon?"
"Yes, it's my treasure."

何が気になるって、なんかやらしい話なんですけど...

日本人がつくった、日本人のためのCMだということが英文に詰まっているところです。
英語のテストで「次の英文を和訳せよ」みたく出題される的な英文...どうもそう聞こえちゃって、逆に印象に残っちゃっているんですよね。

これらの文を Yahoo! JAPAN の翻訳コーナーに放り込んでみると、実にキレイに日本語になります。この翻訳サービスは普通に英字新聞や英語のウェブサイトの文章をそのまま入力しても期待するようなレベルには達しておりませんが、これらの文章はキレイに日本語になります。

模範的な英文の証拠ですね。

それはさておき...

私が中学生か、高校生か、大学生か... (どんだけ曖昧やねん!?)
のころに...
ええいっ!はっきりしないので、ちょっと調べてきます。

戻りました。

1984年に放送されたテレビドラマ「中卒・東大一直線 もう高校はいらない!」
菅原文太が塾の講師役で、私は毎週観ていました。

そのドラマの中で菅原文太がこんなことをいいました。
「英語はカッコつけなんだ。」
「映画にこんなシーンがあった。」
女 "Are you married?"
男 "Was."

私はそれにとても感動して、だから今でもこの程度ですが覚えております。

つまり、学校の英語だったら
"Are you married?"
"No, I'm not. I got divorced 2 years ago." などと答えるわけですが、
"Was." と一言で
・自分が以前は結婚していたこと
・今は独身だということ
を表現しつつ、「あまり話したくない苦い別れ」を同時に表現しているように感じます。
ピリオドにまで空気を存在させる力を感じます。

なるほど、英語はカッコつけだなあ...と感動しました。
そういう遊び心を持って上のCMの英文を見てみるといかがでしょうか?

ニコンはキムタクに "My treasure." と一言で表現させた方が渋い作品になったのでは?
なんて、ド素人で生意気な私は勝手にそう思います。

2007年12月18日

1902年ニューヨークの列車事故 まとめ編

これも数回に分けてご紹介したエントリーですが、読みやすいようにまとめておきます。

1902年1月8日のことでした。
ラッシュアワー真っ只中の8:17am、グランドセントラル手前のトンネル出口付近でハートフォード発ニューヨーク行きの列車が信号停車中に、後ろから来たホワイトプレーンズ発の列車が突っ込みました。
ホワイトプレーンズ発の列車は、停止していた列車の最後部車両を押しつぶし、なおも列車半分ほどの距離を押し進め、後部車両と機関車が横並びの状態で停車しました。

押しつぶされ、かたまりと化した鉄の残骸や、壊れた機関車のシリンダーやパイプからヒューヒューと音を発して吹き出る高温の蒸気が人々を苦しめました。
衝突の衝撃により列車は停電し、トンネル内は暗闇に包まれました。
幸いにも逃げ出すことができた人たちに救助を求める怪我人たちのわめき声が暗闇と鉄の残骸の中から聞こえていました。
勇気ある人々の救出劇が始まりました。
ニューヨーク中の救急車が集められ、5つの地区の警察官とマンハッタン東セントラル地区の消防士が集結しました。
警察官、消防士、外科医に加え、内科医、聖職者のボランティアによる救済が始まりました。

トンネル通気孔からハシゴが下ろされ、ロープと斧を持った警察官、消防士が突入しました。
無事だった乗客たちも残骸をどけるなど人命救助にあたりました。
スミス神父とウオークレイ博士(消防署の従軍牧師)は死に逝く人々に仕えました。
消防士のクラーク氏は二人の女性を救出するため手足に大やけどを負い、乗客だったマーフィー氏は自分の両足が骨折しているにもかかわらず残骸の撤去作業を手伝うなど決死の救出劇が進行する中、あと少しで救出されるところで命を落とす人もいました。
ウオークレイ博士は痛みに耐えられない人たちに覚せい剤を配りました。

すぐに治療が必要な重症者は救急隊と外科医が仮手当てを行い、地上に引き上げられました。
重症患者はすぐに病院に搬送され、パークアヴェニュー沿いのたくさんの建物が怪我人のために開放されました。
死体は安置所と警察署に運ばれました。

雪の中数え切れないほどの人が成り行きを見守りました。

ヴァンダービルト氏締め出しを喰らう!

Cornelius Vanderbilt もトンネルに駆けつけましたが、警察は彼の立ち入りを許可しませんでした。
(Cornelius Vanderbilt はグランドセントラルを建てた鉄道王。ただし、創設者は1877年に亡くなっていますので、ここで登場するヴァンダービルト氏は跡継ぎと思われます。ヴァンダービルトファミリーではコーネリアス、その息子のウイリアムが2世、3世として何代も受け継がれています。)

この事故原因は結局ウヤムヤにされてしまいました。
フランクリン警察本部長は "JMウイスコー" (衝突した側のホワイトプレーンズ発の列車の機関士)の責任と主張しました。追突された側の列車が停まったとき、旗手が後続車両に停車中を知らせるサイン(ライト)をセットしたことは明らかな事実だったからです。
通気孔から雪が降りこむ日のトンネル内には蒸気と煙が充満し、視界が悪くなる傾向はありました。
ウイスコー機関士とボイラーマン(石炭をボイラーにくべる人)フリン氏が逮捕されました。
旗手も拘留されましたが、後に釈放されています。

フランクリン警察本部長は次の声明文を発表しました。
「59丁目の信号は追突された側の列車によりSTOPを示しており、後続のウイスコー機関士がこれを無視したことが事故の原因である。ボイラーマンのフリン氏が停車を促したにもかかわらずです。停止の信号を見逃すということは進行OKの信号も同時に見逃していることとなり、もし視界が悪く信号が見えなかったのであれば慎重になってしかるべきだ。」

事故に遭遇した乗客のユージン氏はこのように語りました。

「私たちは後ろから2両目の客車に静かに座っていました。客車は1席か2席しか空いていないほど混み合っていました。私の車両、最後尾の車両にはともに数名の女性が乗車していました。
私たちは57丁目で少しの間停車していました。
事故は突然の出来事でした。
車両の電気はたちまち消え、真っ暗闇になりました。
鉄と木がぐしゃぐしゃになる音と大勢の悲鳴が聞こえました。
後部車両に目をやるとそこにはつぶれた客車と、なおも轟音を上げる機関車が一緒になっていました。

私は大きなゆれによって席を投げ出され、額から大量の出血を感じました。
息苦しい煙と蒸気が一面に立ち込めました。
傷だらけになりながらも必死に抜け出そうとする人がたくさん見えました。

そのとき突っ込んできた機関車が発火しました。
もう逃げることしか思いつきませんでした。
私はすぐ右側に自分の友人をみつけました。
彼は「コンチキチョウ!開きやがれ!」と泣きわめきながら窓を開けようとしていました。
私も窓のほうへ向き直りましたが、窓ガラスは事故の衝撃ですべて割れていました。

私たちは何とか抜け出しました。
途中血だらけながら自力で抜け出そうとする人が数名いました。」

以上です。
m(_ _)m

2007年12月17日

コーネリアス・ヴァンダービルトについて まとめ編

数回に分けてコーネリアス・ヴァンダービルトのことを調べてご紹介してきましたが、今のままでは読みにくいので、ここでまとめておきます。

Cornelius Vanderbilt (May 27, 1794 - January 4, 1877)
出身地 : ニューヨーク州スタテンアイランド

フェリー会社勤務の父と農婦の母の間に9人兄弟の4番目として生まれ、家庭が裕福ではなかったのでまともな教育を受けることなく育ちました。

彼の祖先 ジャン・アートソン はオランダのビルト村で農業に従事しておりましたが、1650年に年季奉公人としてニューヨークに移住しました。
ヴァンダービルトという苗字は、アートソンがアメリカ移民後につけたもので、 "ビルト村の" というオランダ語(van der bilt)を一語に短縮したものです。
後にヴァンダービルト家の多くの人はイギリス系アメリカ人となり、オリジナルのオランダの血を引く男子は コーネリアス の祖父である ヤコブ・ヴァンダービルト が最後となりました。

コーネリアスは16歳になるとニューヨークハーバーで貨物と人の運送を仕事にしました。
2年後に1812年戦争が始まり、彼は軍と契約し水上運送の利権を手中にします。

そのうちにコーネリアスはニューヨークのフェリー運行を牛耳るまでになっていきました。
そして1813年、近くに住んでいたいとこのソフィアジョンソンと結婚、13人の子供に恵まれました。

1818年、彼は所持していた艦船を売り払い、トーマス・ギボンスが経営する蒸気船会社 "ギボンス・ライン" に入社しました。
当時ニューヨーク議会は、ロバート・フルトンとロバート・リビングストンに蒸気船交通の30年の法的独占を与えましたが、コーネリアス(ギボンス・ライン社)は「ニュージャージー・マンハッタン線」(ニューヨークとフィラデルフィアの経済交流で重要)の運賃を勝手に安く販売し、大きな利益をあげました。

その間に、妻のソフィアはニュージャージーの停泊所近くに旅館・レストランを経営し、大成功。
こうしてヴァンダービルト家の財産はどんどん膨らんでいきました。

リビングストンとフルトンはヴァンダービルトを何とかして捕まえようとしますが、うまくいかず、結局自分たちの蒸気船の操縦士として好条件で仕事をオファーしました。
彼は「私は自分の目標達成に重きを置いており、お金儲けはそれほど重要なことではない。」と答えたそうです。
彼にとっての目標とは法的独占体制の崩壊でした。

リビングストンとフルトンはギボンス・ライン社を告訴、最高裁まで争われたもの、結局彼らは独占権を失くしました。

コーネリアスは1829年までギボンスライン社に在籍し、商売のノウハウを学び、貯金をして独立。
ハドソン川で「アルバニー・ニューヨーク線」をスタートしました。

彼はまず運賃競争でダニエル・ドリュー社に打ち勝ち、ダニエル・ドリュー社を撤退に追い込みました。
すぐにヴァンダービルト・ライン社は、「ハドソン川の安くて快適な船舶」として世間から認められる存在になりました。
1940年代には彼の会社は100隻もの蒸気船を所有し、事業を拡大していきました。

競合会社はひとつにまとまり、ヴァンダービルトを追い出しにかかりました。

そして彼はロングアイランド(ニューヨーク州)・ボストン間の運行に打って出ます。
これは決して彼が負けを認めたのではなく、確実な前進でした。

彼は自らを「コモドール(提督)」と位置づけ、しばしば全身を海軍の軍服でまといました。

1849年、カリフォルニアはゴールドラッシュに沸きます。

コーネリアスは1851年に探鉱者向けにニカラグア共和国経由カリフォルニア行きの運航を開始しました。
ニューオリンズ発、船中泊にてニカラグア共和国へ、大西洋側から太平洋側へ陸上移動し、別の船に乗船、サンフランシスコへ北上しました。
これにより従来のパナマ地峡コースに比べ960kmの近道となり、料金を半額に設定しました。
このビジネスは大成功を収め、経営が苦しくなった競合会社は彼に1ヶ月5万ドルにて、この路線の運行停止契約を結びました。

1855年には豪華客船にも着手し、数年間フランス線を運航しました。

1844年、コーネリアスはロング・アイランド・レイルロード社の役員に選任されました。
当時ロング・アイランド・レイルロード社は蒸気船接続のニューヨーク・ボストン線を運行していました。

そして1857年、彼はニューヨーク・ハーレム鉄道の役員になりました。
そこでまたしてもダニエル・ドリューがライバルとなりました。
情勢はドリュー優勢でしたが、コーネリアスは海運業の資本を徐々に引き上げ、ニューヨーク・ハーレム鉄道、ハドソン・リバー鉄道、そしてニューヨーク・セントラル鉄道と次々に買収、会社の強化を重ね、1869年ニューヨーク・セントラル・ハドソン・リバー鉄道へと合併を果たしました。

1868年、妻のソフィアが死亡。
翌年コーネリアスはカナダでアラバマ在住、43歳年下のいとこと再婚します。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

余談ですがコーネリアスは鉄道事故に巻き込まれたことがありました。
1833年11月11日、カムデン&アンボイ社の汽車がニュージャージー州ハイツタウン近郊の牧草地で脱線事故を起こしました。
このアメリカ鉄道史上最も初期の鉄道事故のうちの1つにコーネリアスは巻き込まれました。
彼は肋骨を2本折り、それが肺に突き刺さったため全治1ヶ月の大怪我を負いました。
実はこの汽車には元大統領のジョン・クインシー・アダムスも乗車していて、彼は脱線した客車の1両前に乗っていたため無事でしたが、息子を亡くしました。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

1871年、コーネリアスはニューヨーク・アンド・ニューヘイヴン鉄道と業務提携し、2社が共に乗り入れる操車場を東42丁目に建設することになりました。
これがグランド・セントラル・ターミナルの前身です。

1873年、ニューヨーク・シカゴを鉄道で結びました。
そしてコーネリアスはエリー鉄道を傘下に治めようとし、それが彼の最大のライバルとなる "ジェイ・グールド" (当時のエリー鉄道の役員)との対立のはじまりとなりました。
グールドは水増し株で一時的にエリー鉄道の株価を吊り上げ、コーネリアスはそうと知らずに高値で大量の株を取得、勝利の女神はガウルドに微笑みました。
コーネリアスの損失は7百万ドルとも言われていますが、後にグールドはこのお金をコーネリアスに戻したそうです。
コーネリアスはそれまで望んだものすべてを手に入れてきましたので、この一件は屈辱的でした。
損失を被ったときに「スカンクは蹴るな」と言ったそうです。
実際にグールドにしてやられたのはこれ一度ではありませんでした。

その頃、世界恐慌がアメリカにも影響し始めましたが、そのさなかに彼はグランド・セントラル・ターミナルの建設をスタートしました。
この事業は不況で職をなくした多くの人々の生活を支えました。
ニューヨークセントラル社はこの不況下においても利益計上できた数少ない鉄道会社のひとつでした。

1877年1月4日
とても寒い日にコーネリアスは82年の生涯に幕を下ろしました。
彼の死を悼むかのように吹雪がグランドセントラル操車場のガラスの天井を割りました。

コーネリアスには敵ばかりで友人は一人もいませんでした。
子供でさえ、ウイリアム以外とは接点を持とうとしませんでした。
他の子供には自分の事業を引き継ぐ能力がないと判断したからです。

そんなエピソードから察するように彼は全く慈善家ではありませんでしたが、100万ドルをテネシー州のセントラル大学に寄付するよう遺書に記しました。
セントラル大学は後にヴァンダービルト大学に改名しました。

彼の遺産は1億ドル以上と言われましたが、そのほとんど(9500万ドル)は息子ウイリアムが相続しました。
(娘8人にはそれぞれ50万ドルしか分配されませんでした。)
彼の資産は2007年の貨幣価値に置き換えると1430億ドル(120円換算で17兆1600億円!)と言われております。
アメリカ史上2番目の資産家だそうです。

ウイリアムはコーネリアスの死後数年して西部電報会社の運営に携わりはじめました。
同じ頃、父のライバル "ジェイ・グールド" はアメリカン電報会社を創立。
西部電報会社を倒産に近いところまで追い込みました。
そしてウイリアムは計画的にアメリカン電報会社の買収を余儀なくされ、グールドは莫大な財を築きました。

*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***

「もし私がまともな教育を受けて育っていたら、ほかのことは何も習得できていなかっただろう。」

- コーネリアス・ヴァンダービルド 1853

2007年12月16日

グランド・セントラル・ステーション その12

こちらにコーネリアス・ヴァンダービルトについてのまとめ編をアップロードしてありますのでどうぞ♪

前回のエントリーの続きです。

1871年、コーネリアスはニューヨーク・アンド・ニューヘイヴン鉄道と業務提携し、2社が共に乗り入れる操車場を東42丁目に建設することになりました。
これがグランド・セントラル・ターミナルの前身です。

1873年、ニューヨーク・シカゴを鉄道で結びました。
そしてコーネリアスはエリー鉄道を傘下に治めようとし、それが彼の最大のライバルとなる "ジェイ・グールド" (当時のエリー鉄道の役員)との対立のはじまりとなりました。
グールドは水増し株で一時的にエリー鉄道の株価を吊り上げ、コーネリアスはそうと知らずに高値で大量の株を取得、勝利の女神はガウルドに微笑みました。
コーネリアスの損失は7百万ドルとも言われていますが、後にグールドはこのお金をコーネリアスに戻したそうです。
コーネリアスはそれまで望んだものすべてを手に入れてきましたので、この一件は屈辱的でした。
損失を被ったときに「スカンクは蹴るな」と言ったそうです。
実際にグールドにしてやられたのはこれ一度ではありませんでした。

その頃、世界恐慌がアメリカにも影響し始めましたが、そのさなかに彼はグランド・セントラル・ターミナルの建設をスタートしました。
この事業は不況で職をなくした多くの人々の生活を支えました。
ニューヨークセントラル社はこの不況下においても利益計上できた数少ない鉄道会社のひとつでした。

1877年1月4日
とても寒い日にコーネリアスは82年の生涯に幕を下ろしました。
彼の死を悼むかのように吹雪がグランドセントラル操車場のガラスの天井を割りました。

コーネリアスには敵ばかりで友人は一人もいませんでした。
子供でさえ、ウイリアム以外とは接点を持とうとしませんでした。
他の子供には自分の事業を引き継ぐ能力がないと判断したからです。

そんなエピソードから察するように彼は全く慈善家ではありませんでしたが、100万ドルをテネシー州のセントラル大学に寄付するよう遺書に記しました。
セントラル大学は後にヴァンダービルト大学に改名しました。

彼の遺産は1億ドル以上と言われましたが、そのほとんど(9500万ドル)は息子ウイリアムが相続しました。
(娘8人にはそれぞれ50万ドルしか分配されませんでした。)
彼の資産は2007年の貨幣価値に置き換えると1430億ドル(120円換算で17兆1600億円!)と言われております。
アメリカ史上2番目の資産家だそうです。

ウイリアムはコーネリアスの死後数年して西部電報会社の運営に携わりはじめました。
同じ頃、父のライバル "ジェイ・グールド" はアメリカン電報会社を創立。
西部電報会社を倒産に近いところまで追い込みました。
そしてウイリアムは計画的にアメリカン電報会社の買収を余儀なくされ、グールドは莫大な財を築きました。

以上です。

2007年12月15日

グランド・セントラル・ステーション その11

こちらにコーネリアス・ヴァンダービルトについてのまとめ編をアップロードしてありますのでどうぞ♪

前回のエントリーの続きです。

1849年、カリフォルニアはゴールドラッシュに沸きます。
コーネリアスは1851年に探鉱者向けにニカラグア共和国経由カリフォルニア行きの運航を開始しました。
ニューオリンズ発、船中泊にてニカラグア共和国へ、大西洋側から太平洋側へ陸上移動し、別の船に乗船、サンフランシスコへ北上しました。
これにより従来のパナマ地峡コースに比べ960kmの近道となり、料金を半額に設定しました。
このビジネスは大成功を収め、経営が苦しくなった競合会社は彼に1ヶ月5万ドルにて、この路線の運行停止契約を結びました。

1855年には豪華客船にも着手し、数年間フランス線を運航しました。

1844年、コーネリアスはロング・アイランド・レイルロード社の役員に選任されました。
当時ロング・アイランド・レイルロード社は蒸気船接続のニューヨーク・ボストン線を運行していました。

そして1857年、彼はニューヨーク・ハーレム鉄道の役員になりました。
そこでまたしてもダニエル・ドリューがライバルとなりました。
情勢はドリュー優勢でしたが、コーネリアスは海運業の資本を徐々に引き上げ、ニューヨーク・ハーレム鉄道、ハドソン・リバー鉄道、そしてニューヨーク・セントラル鉄道と次々に買収、会社の強化を重ね、1869年ニューヨーク・セントラル・ハドソン・リバー鉄道へと合併を果たしました。

1868年、妻のソフィアが死亡。
翌年コーネリアスはカナダでアラバマ在住、43歳年下のいとこと再婚します。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

余談ですがコーネリアスは鉄道事故に巻き込まれたことがありました。
1833年11月11日、カムデン&アンボイ社の汽車がニュージャージー州ハイツタウン近郊の牧草地で脱線事故を起こしました。
このアメリカ鉄道史上最も初期の鉄道事故のうちの1つにコーネリアスは巻き込まれました。
彼は肋骨を2本折り、それが肺に突き刺さったため全治1ヶ月の大怪我を負いました。
実はこの汽車には元大統領のジョン・クインシー・アダムスも乗車していて、彼は脱線した客車の1両前に乗っていたため無事でしたが、息子を亡くしました。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

続きは次回。

2007年12月14日

グランド・セントラル・ステーション その10

こちらにコーネリアス・ヴァンダービルトについてのまとめ編をアップロードしてありますのでどうぞ♪

前回エントリーの続きです。

そのうちにコーネリアスはニューヨークのフェリー運行を牛耳るまでになっていきました。
そして1813年、近くに住んでいたいとこのソフィアジョンソンと結婚、13人の子供に恵まれました。

1818年、彼は所持していた艦船を売り払い、トーマス・ギボンスが経営する蒸気船会社 "ギボンス・ライン社" に入社しました。
当時ニューヨーク議会は、ロバート・フルトンとロバート・リビングストンに蒸気船交通の30年の法的独占を与えましたが、コーネリアス(ギボンス・ライン社)は「ニュージャージー・マンハッタン線」(ニューヨークとフィラデルフィアの経済交流で重要)の運賃を勝手に安く販売し、大きな利益をあげました。

その間に、妻のソフィアはニュージャージーの停泊所近くに旅館・レストランを経営し、大成功。
こうしてヴァンダービルト家の財産はどんどん膨らんでいきました。

リビングストンとフルトンはヴァンダービルトを何とかして捕まえようとしますが、逃げられ、結局自分たちの蒸気船の操縦士として好条件で仕事をオファーしました。
彼は「私は自分の目標達成に重きを置いており、お金儲けはそれほど重要なことではない。」と答えたそうです。
彼にとっての目標とは法的独占体制の崩壊でした。

リビングストンとフルトンはギボンス・ライン社を告訴、最高裁まで争われたもの、結局彼らは独占権を失くしました。

コーネリアスは1829年までギボンスライン社に在籍し、商売のノウハウを学び、貯金をして独立。
ハドソン川で「アルバニー・ニューヨーク線」をスタートしました。

彼はまず運賃競争でダニエルドリュー社に打ち勝ち、ダニエルドリュー社を撤退に追い込みました。
すぐにヴァンダービルト・ライン社は、「ハドソン川の安価で快適な船舶」として世間から認められる存在になりました。
1940年代には彼の会社は100隻もの蒸気船を所有し、事業を拡大していきました。

競合会社はひとつにまとまり、ヴァンダービルトを追い出しにかかりました。

そして彼はロングアイランド(ニューヨーク州)・ボストン間の運行に打って出ます。
これは決して彼が負けを認めたのではなく、確実な前進でした。

彼は自らを「コモドール(提督)」と位置づけ、しばしば全身を海軍の軍服でまといました。

そして時代はゴールドラッシュを迎えます。
続きは次回。

2007年12月13日

グランド・セントラル・ステーション その9

こちらにコーネリアス・ヴァンダービルトについてのまとめ編をアップロードしてありますのでどうぞ♪

今回からグランドセントラルを建てた鉄道王 コーネリアス・ヴァンダービルト について、アメリカのサイトから情報をご案内します。

そこには壮大なアメリカンドリームがありそうです。
では、はじめましょう。

Cornelius Vanderbilt (May 27, 1794 - January 4, 1877)
出身 : ニューヨーク州スタテンアイランド

フェリー会社勤務の父と農婦の母の間に9人兄弟の4番目として生まれ、家庭が裕福ではなかったのでまともな教育を受けることなく育ちました。

彼の祖先 ジャン・アートソン はオランダのビルト村で農業に従事しておりましたが、1650年に年季奉公人としてニューヨークに移住しました。
ヴァンダービルトという苗字は、アートソンがアメリカ移民後につけたもので、 "ビルト村の" というオランダ語(van der bilt)を一語に短縮したものです。
後にヴァンダービルト家の多くの人はイギリス系アメリカ人となり、オリジナルのオランダの血を引く男子は コーネリアス の祖父である ヤコブ・ヴァンダービルト が最後となりました。

コーネリアスは16歳になるとニューヨークハーバーで貨物と人の運送を仕事にしました。
2年後の1812年戦争が始まり、彼は軍と契約し利権を手中にします。

続きは次回。

2007年12月12日

グランド・セントラル・ステーション その8

こちらに1902年の鉄道事故についてのまとめ編をアップロードしてありますのでどうぞ♪

さて、前回のエントリーで事故の状況がある程度わかる記事をご紹介しましたが、なるほどひどい事故だったんですね。

では早速続きをご紹介しましょう。

ヴァンダービルト氏締め出しを喰らう!

Cornelius Vanderbilt もトンネルに駆けつけましたが、警察は彼の立ち入りを許可しませんでした。
(Cornelius Vanderbilt はグランドセントラルを建てた鉄道王。ただし、創設者は1877年に亡くなっていますので、ここで登場するヴァンダービルト氏は跡継ぎと思われます。ヴァンダービルトファミリーのことを少し調べたら、すごく興味深そうでした!)

この事故原因は結局ウヤムヤにされてしまいました。
フランクリン警察本部長は "JMウイスコー" (衝突した側のホワイトプレーンズ発の列車の機関士)の責任と主張しました。追突された側の列車が停まったとき、旗手が後続車両に停車中を知らせるサイン(ライト)をセットしたことは明らかな事実だったからです。
通気孔から雪が降りこむ日のトンネル内には蒸気と煙が充満し、視界が悪くなる傾向はありました。
ウイスコー機関士とボイラーマン(石炭をボイラーにくべる人)フリン氏が逮捕されました。
旗手も拘留されましたが、後に釈放されています。

フランクリン警察本部長は次の声明文を発表しました。
「59丁目の信号は追突された側の列車によりSTOPを示しており、後続のウイスコー機関士がこれを無視したことが事故の原因である。ボイラーマンのフリン氏が停車を促したにもかかわらずです。停止の信号を見逃すということは進行OKの信号も同時に見逃していることとなり、もし視界が悪く信号が見えなかったのであれば慎重になってしかるべきだ。」

事故に遭遇した乗客のユージン氏はこのように語りました。

「私たちは後ろから2両目の客車に静かに座っていました。客車は1席か2席しか空いていないほど混み合っていました。私の車両、最後尾の車両にはともに数名の女性が乗車していました。
私たちは57丁目で少しの間停車していました。
事故は突然の出来事でした。
車両の電気はたちまち消え、真っ暗闇になりました。
鉄と木がぐしゃぐしゃになる音と大勢の悲鳴が聞こえました。
後部車両に目をやるとそこにはつぶれた客車と、なおも轟音を上げる機関車が一緒になっていました。

私は大きなゆれによって席を投げ出され、額から大量の出血を感じました。
息苦しい煙と蒸気が一面に立ち込めました。
傷だらけになりながらも必死に抜け出そうとする人がたくさん見えました。

そのとき突っ込んできた機関車が発火しました。
もう逃げることしか思いつきませんでした。
私はすぐ右側に自分の友人をみつけました。
彼は「コンチキチョウ!開きやがれ!」と泣きわめきながら窓を開けようとしていました。
私も窓のほうへ向き直りましたが、窓ガラスは事故の衝撃ですべて割れていました。

私たちは何とか抜け出しました。
途中血だらけながら自力で抜け出そうとする人が数名いました。」

以上です。
m(_ _)m

2007年12月11日

グランド・セントラル・ステーション その7

こちらに1902年の鉄道事故についてのまとめ編をアップロードしてありますのでどうぞ♪

さて、前回予告しましたようにニューヨークで1902年に起きた事故とはどのようなものだったのでしょうか?
これがきっかけで蒸気機関車の乗り入れを禁止してしまったくらいですから気になります。

では、調べた結果をご紹介いたします。

1902年1月8日のことでした。
ラッシュアワー真っ只中の8:17am、グランドセントラル手前のトンネル出口付近でハートフォード発ニューヨーク行きの列車が信号停車中に、後ろから来たホワイトプレーンズ発の列車が突っ込みました。
ホワイトプレーンズ発の列車は、停止していた列車の最後部車両を押しつぶし、なおも列車半分ほどの距離を押し進め、後部車両と機関車が横並びの状態で停車しました。

押しつぶされ、かたまりと化した鉄の残骸や、壊れた機関車のシリンダーやパイプからヒューヒューと音を発して吹き出る高温の蒸気が人々を苦しめました。
衝突の衝撃により列車は停電し、トンネル内は暗闇に包まれました。
幸いにも逃げ出すことができた人たちに救助を求める怪我人たちのわめき声が暗闇と鉄の残骸の中から聞こえていました。
勇気ある人々の救出劇が始まりました。
ニューヨーク中の救急車が集められ、5つの地区の警察官とマンハッタン東セントラル地区の消防士が集結しました。
警察官、消防士、外科医に加え、内科医、聖職者のボランティアによる救済が始まりました。

トンネル通気孔からハシゴが下ろされ、ロープと斧を持った警察官、消防士が突入しました。
無事だった乗客たちも残骸をどけるなど人命救助にあたりました。
スミス神父とウオークレイ博士(消防署の従軍牧師)は死に逝く人々に仕えました。
消防士のクラーク氏は二人の女性を救出するため手足に大やけどを負い、乗客だったマーフィー氏は自分の両足が骨折しているにもかかわらず残骸の撤去作業を手伝うなど決死の救出劇が進行する中、あと少しで救出されるところで命を落とす人もいました。
ウオークレイ博士は痛みに耐えられない人たちに覚せい剤を配りました。

すぐに治療が必要な重症者は救急隊と外科医が仮手当てを行い、地上に引き上げられました。
重症患者はすぐに病院に搬送され、パークアヴェニュー沿いのたくさんの建物が怪我人のために開放されました。
死体は安置所と警察署に運ばれました。

雪の中数え切れないほどの人が成り行きを見守りました。

今回はこの辺で...
次回へ続く。

2007年12月10日

グランド・セントラル・ステーション その6

こちらに1902年の鉄道事故についてのまとめ編をアップロードしてありますのでどうぞ♪

前回のエントリーでグランドセントラルについての英文を和訳させていただきましたが、その文章がサラっとしたもので大きな流れしかわからず、多分アメリカで生まれ育った人たちにはそこそこ知られていることなんかはザックリ書いたんじゃないか?と逆にそのザックリの裏側に興味が沸いてしまって、あれこれ調べてみました。

すると、もうちょっと詳しい当時の状況や、一人の切れ者エンジニアの功績が書かれた記事を見つけましたので、今回はそれをご紹介します。

では、いってみましょう!
...って、勝手に熱くなってすみません。
m(_ _)m

元々のグランドセントラル駅の操車場は43丁目から49丁目の6ブロック分となっており、5番街の49丁目以北は4車線が平行に走っていました。
1871年操車場が完成したとき、すぐに問題が発生しました。
毎日104本の汽車がグランドセントラルに乗り入れるため何十もの切り替えトラックが備えられ、すべてが人が歩く通りと同じ地上に設置、運行されていました。
蒸気機関車、客車、線路の複雑なもつれ具合は、歩行者に大きな危険となって立ちはだかりました。
ラッシュ時には3分に1本もの割合で蒸気機関車が地上を往来しました。

汽車はうるさく、汚れていて、何より危険でした。
そしてニューヨーク市があれこれと対策を打つも、問題は悪化するばかりでした。
結局、1875年にグランドセントラルは4番街の地下に線路を移設することに同意しました。
49丁目から56丁目にかけて、4本の線路はオープンカット方式(地下に線路を敷くものの天井は作らない)で、街を横切るための橋がその上にかけられました。
56丁目から96丁目にかけては線路は覆いかぶされ、蒸気機関車が吐く煙を逃がすベンチレータが設置されていました。(Vanderbilt氏はこの対策に市が工事費6百万ドルの半分を負担することに同意するまで動きませんでした。)

しかしその通気孔は気休めにしかなりませんでした。
トンネルの中は煙たく、暑く、汚く、特に朝のラッシュ時は最悪でした。
よって、パークアヴェニュートンネルの通気孔は灰を撒き散らす煙突と化しました。
ニューヨーク史上最悪の列車事故である1902年の事故が起こる頃には、ニューヨーク州、ニューヨーク市の両者がこの問題にはうんざりしていました。
そして、事故をきっかけにハーレムリバー以南への蒸気機関車の乗り入れを禁止してしまったのです。

当時鉄道局のチーフエンジニアだったウイリアム・ウイルガス氏が壮大な計画の青写真を描き出したのはその頃でした。
彼の計画はニューヨークセントラル社(現在のニューヨークセントラルラインズ)が所有した土地の約20万平米の掘り起こしを必要としました。そして、地下13~18メートルの深さに線路を埋め込もうというものでした。
列車の需要が高まるにつれ、ウイルガス氏は二つのターミナルを二層構造で建設する計画に膨らませていきました。
下の階層~マンハッタンの地盤である岩部分にまで達する~は通勤客などが利用する短距離線を、その上には長距離線を配置しようというものでした。
その壮大な計画はマンハッタンのミッドタウンとパークアヴェニューの再開発を意味し、ウイルガス氏の見積もりによるとニューヨークセントラル社は4千万ドルの資金を必要としました。
4千万ドルはニューヨークセントラル社の半年分の収益に匹敵しました。
(実際には2年の間にコストは7千万ドルに膨れ上がりました)

想定外の大金を支払うためにウイルガス氏はパークアヴェニューの道路舗装が完了した後にターミナル一帯の空間所有権の長期リースを提案しました。
これにより、リース契約をした開発業者はビルを建設することができました。
ウイルガス氏はこれを「空からの恵み」といい、グランドセントラルに必要な経費をグランドセントラルがまかなうことに成功しました。

以上です。

パークアヴェニューが他に比べて道幅が広いこと、グランドセントラル以北のパークアヴェニュー沿いの建物の高さが均衡しているのにはちゃんと理由があったのですね。
今更ながらひとつスッキリしました。(笑)

ところで、1902年の事故とはどのようなものだったのでしょうか?
次回そこをもう少し掘り下げてみようと思います。

2007年12月 9日

グランド・セントラル・ステーション その5

こちらにまとめ編をアップロードしてありますので、どうぞ♪

連続で書いてきましたグランドセントラルですが、今回でとりあえずおしまいです。

今回はアメリカのウエブサイト "About.com" のグランドセントラルのページを和訳させていただき、歴史的なことなど勉強してみようと思います。

ニューヨークの歴史的ランドマーク:グランドセントラルターミナル
グランドセントラルターミナル(ニューヨーカーにさえグランドセントラルステーションと言われたりしますが、それは地下鉄の駅の名称です)は、ニューヨーク市の最も有名なランドマークのひとつです。週末に友人たちを伴ってコネティカットへ行ったり、たくさんのニューヨーカーが一度は利用したことがあるでしょう。
ですが、グランドセントラルの歴史や秘密はあまり知られていません。

はじまり
最初のグランドセントラルターミナルは1871年に海運王、鉄道王の "Cornelius Vanderbilt" によって建てられました。ところが1902年に17人死亡、38人負傷の大事故がきっかけで蒸気機関車が禁止され、数ヶ月後に、既存の駅を破壊して、電車のために新しいターミナルを造ことが計画されました。
新しいグランドセントラルターミナルは正式には1913年2月2日に完成、当日150,000人の人々が訪れました。
美術的美しさの駅舎は、大きな大理石の階段、23メートル弱もある窓、星座をあしらった天井などですぐに評判になりました。

全盛期
ホテル、オフィスビルなどの超高層ビル(77階建てのクライスラービルも含まれます)がすぐに駅舎のまわりに建ち並びました。それによってグランドセントラルターミナルは全米で最も利用客の多い駅となり、1947年にはのべ6,500万人以上が利用しました。(これは当時の人口の40%にあたります)

苦難のとき
1950年代には長距離列車の旅の時代は終わりを迎えました。
戦後のアメリカでは飛行機や自動車を利用するケースが増えたのです。
同時にマンハッタンの不動産価値は高騰し、鉄道業による利益が減退したことから、鉄道局はグランドセントラルターミナルをオフィスビルに建てかえる計画を起こしました。
ところが1967年にランドマーク保存委員会が介入し、その計画を一時的に取りやめるよう法律的保護を訴えました。
グランドセントラルターミナルのオーナーであるペンセントラル社も鉄道局の計画には反対で、駅舎の上に55階建ての高層ビルを建設する(駅舎の一部を壊すことになるが...)ことを和解案として提案しました。
結局ランドマーク保存委員会はプロジェクトを阻止すべく、ペンセントラル社にニューヨーク市に対する800万ドルの訴訟を起こさせました。
この法廷闘争は、ほぼ10年の間続きました。
ジャクリーン・ケネディ・オナシスを含む保存賛成派市民とリーダーのおかげで、再開発計画はなくなりました。(訴訟が最高裁判所までいったあとのことですが)

新しいはじまり
1994年に、メトロノース社がグランドセントラル駅の運営を引き継ぎ、大がかりな改装を開始しました。
そして1913年当時の輝かしさを取り戻しつつ、グランドセントラルターミナルは愛されるランドマーク、通勤者たちのハブ駅となり、5軒のレストラン、カクテルラウンジ、ダイニングコンコース、その他50ものテナントショップを擁する施設になりました。
グランドセントラルは近代都市の真ん中で、古き佳き時代のニューヨークを維持しています。

もっと知りたいあなたに
グランドセントラルターミナルの建築