2008年6月 3日

おかげ参り

お伊勢参りが国民の憧れだった時代があったそうです。
しかし、交通が発達していなかった時代に誰もが参宮できるわけではなかったようです。
だからこそ「憧れ」だったのでしょうが...

そこで、昔は有志が集まり、旅費を分担して代表者を伊勢に送ったそうです。

伊勢の御師(おんし)といわれる神職たちは、参宮者のために宿を提供し、案内や神楽を行ない、神宮と民衆を結びつけることに貢献しました。

江戸時代には50日間で362万人が参拝した(どの50日間かは不明)という記述もあるそうで、現在の年間600万人と比較すると当時の伊勢がどれだけ活気づいていただろうか...想像も出来ません。
正月休みの神宮界隈の状況が毎日続くくらいなのでしょうか?

それだけの人気の要因には、関所の撤廃などにより、旅が安全で容易なものになったことがあげられるでしょう。
しかし、その根底にあるのは、神々の「おかげ」をいただき生かされているという信仰心。
それが多くの国民にあった証なのでしょう。

2008年5月13日

自給自足

神宮では、お供えされる食物はもちろん、食器類も自給しています。
自給自足と書くのは簡単ですが、実際には水源確保のためには山を整備しなくてはならなかったり、現代人の私たちには想像もつかないような知恵と労力が必要なようです。

式年遷宮で使用する木材も植樹し、手間隙を掛けて育てたものを使用していますし、絹や麻の布を織る機殿(はたどの)をも有しています。

自給自足とは環境と衣食住の文化をを両立させることであり、神宮は常若の思想でこれらを繰り返し循環させることで古くに確立された文明を今日まで継続しているのです。

2008年5月 1日

稲作の祭

神宮では稲作がベースになった、たくさんの祭が行われています。
稲作を生活の基盤とする瑞穂の国では、よく米ができることが幸せであり、稲にかかわる伊勢の神々が人々の信仰の対象となったのは当然のことかもしれません。

それでは、どのような祭があるか見ていきましょう。
種をまく神田下種祭(しんでんげしゅさい)、御田植式、風雨の順調を祈る風日祈祭(かざひのみさい)、初穂を収穫する抜穂祭(ぬいぼさい)...
最も重儀とされるのは、10月に行われる「神嘗祭」(かんなめさい)です。
初穂米を蒸した飯、醸した酒、杵でついた餅として供える神嘗祭には、天皇が作られた稲も両宮に奉献されます。

神嘗祭の祭器具は毎年新調されます。
これは式年遷宮と共通の「常若の思想」によるもので、実際に南北朝以前の式年遷宮は式日まで決まっていて、神嘗祭の日とされていました。

2008年4月 1日

外宮の鎮座伝承

高倉山のふもとに豊受大神宮(外宮)が鎮座されたのは、第21代雄略天皇の即位22年のことでした。
天皇は、夢の中で「天照大神」が「我御饌都神豊受大神を我許に」(わがみけつかみ豊受大神をわがみもとに)と教えられたことに由来するそうです。

我御饌都神(わがみけつかみ)とは、食事を司る神のことです。
外宮鎮座以来1500年間、御饌殿では、毎日朝夕2回、天照大神の食事を供える「日別朝夕大御饌祭」(ひごとあさゆうおおみけさい)が続けられてます。

供えられる御饌は、御飯(おんいい)、魚、海草、野菜、果物、塩、水、酒です。
栄養バランスがとれていて、お酒が最後に供えられるなど、健康面から見ても理想的なものです。

伊勢志摩は食材に恵まれた地で、神宮においても、五十鈴川の水で稲、野菜、果物を育て、二見で天然の塩を作り、伊勢湾でとれたアワビや伊勢海老などを神饌とし続けています。
倭姫命が定められた自給自足の伝統が今も守られているのです。

我々民衆の食生活とは全然違いますね。(笑)

2008年3月 1日

内宮の鎮座伝承

天照大神は、歴代の天皇によって皇居の中で祀られていました。
神勅の通りに神鏡と天皇が「同床共殿」(床を同じく、殿を共に)されていたわけです。

ところが、第10代崇神天皇(すじんてんのう)のころ、疫病が発生し、大勢の人が亡くなり、流民も出る事態となりました。
天候不順と食物の欠乏から起きたと考えられた疫病がきっかけとなり、天照大神は皇居の外で祀られることになりました。
「同床共殿は畏れ多い」とする神人分離の発想で、神鏡を三輪山に近い笠縫邑(かさぬいのむら)へ遷すことになたのです。

皇居では神鏡の模造が祀られ、神鏡は皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)=初代斎王により祀られました。
「古語拾遺」によると、このとき天叢雲剣も遷され、模造の神剣が皇居に残されたそうです。

二つの神器が伊勢に遷されたのは、第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)の即位26年(約2000年前)のこと。
垂仁天皇の皇女で斎王を継がれた倭姫命(やまとひめのみこと)は、さらに良い宮地をもとめて、大和から伊賀、近江、美濃などを巡り、伊勢にたどり着きました。

「日本書紀」では、倭姫命は天照大神の教えによって、宇治の五十鈴川のほとりに、皇大神宮(内宮)を創建されたと伝えられています。

2008年2月14日

三種の神器

前回のエントリーで、天叢雲剣、八咫鏡、八尺瓊勾玉が「三種の神器」ですというところまで書きました。

今回はこの「三種の神器」についてもう少し書いてみます。

「三種の神器」を地上に降臨されたのは、天照大神の孫「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)です。
稲穂も一緒に地上に降臨されました。
天孫降臨に先立ち、天照大神は「稲穂の国を天地とともに永遠に栄えるように治めなさい」、「この鏡を私を見るように見て祀りなさい」、「この稲を地上で育てなさい」と言ったそうです。

天孫は、神の恵みに感謝を捧げ、永遠に生命を連鎖させる生活を確立する使命を持って降臨されました。
この天孫降臨によって稲穂の国は栄え、神武天皇の御代には、大和に都が開かれたそうです。

神話は自然の恵み、衣食住の大切さ、自然との共生、平和への祈りを説き、三種の神器(鏡、勾玉、剣)は智、仁、勇を意味するともいわれています。

2008年2月 7日

神話にみる伊勢神宮

皇大神宮(内宮)に祀られる天照大神は、古事記に「天照大御神」、皇大神宮儀式帳に「天照皇大御神」(あまてらすすめおおみかみ)と記されています。

天照大神は天上世界にある高天原(たかまのはら)の最高神、豊受大神(外宮)は保食神(うけもちのかみ)=五穀豊穣の神といわれております。

日本書紀の神話伝承によると、保食神が五穀(稲、粟、稗、麦、豆)、蚕、魚、鳥、牛、馬を生み出しました。
天照大神は高天原で稲作や機織をしていて、この世は至って平和だったそうです。
ところが、あるとき荒ぶる神(素戔嗚尊・すさのおのみこと)が出現して稲作や機織を妨害し、神聖な宮殿を汚してしまいました。
そして天照大神は天岩戸の奥に隠れ、高天原が闇につつまれました。

この後の話は有名ですね。

神々は知恵を絞って、八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)をつくり、榊に飾り、祝詞を上げ、神楽を舞うなどの祭りを行い、岩戸を開きました。

一方荒ぶる神、素戔嗚尊は天上を追放され、地上で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治。
その大蛇の尾から出た天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を天照大神に献上した。

この天叢雲剣、八咫鏡、八尺瓊勾玉が「三種の神器」です。

2008年2月 2日

神宮は観光地なの?

「THE 神宮」のお伊勢さんですが、お参りに来るというよりは、観光ついでのお参りという感覚の方が最近は多いように思えます。
おはらい町、おかげ横丁界隈はほぼ一日遊べますし、テーマパークのように大金が必要なわけでもありませんから納得のことではあります。

ですが、実際に数字を見てみますと、そうでもないことがわかります。
神宮にお参りする方の数は年間六百万人といわれていて、おかげ横丁の来丁者数は三百万人といわれています。
ということは、半数の方はお参りしてもおかげ横丁に寄らないといえます。

ここで、更に「ですが」が登場します。
伊勢にお越しの方は結構リピーターが多くいらっしゃって、毎度おかげ横丁に立ち寄るわけでもないようなのです。

では、そのような方々は神宮を参拝してすぐに帰ってしまわれるのでしょうか?
答えは「NO」です。

実は神宮関係の祭りは年間千五百回を数え、これに加えて二十年に一度の式年遷宮があり、そういうお祭り、イベントに参加したり、見学したりする目的でいらっしゃる方が多いということです。

神宮の祭りというのはショーのような華やかなものではありませんが、慎ましやかで、背筋が伸びるような空気があって、リラックスした風情があって、そして御木曳きのようにアクティヴなものもあり、それぞれが日常のストレスをリフレッシュするには充分な魅力があるのだと思います。

「世界の聖域」とまで言われたりしますから、ここに住んでいる私たちには感じ取れない空気が人々を引き寄せるのでしょうね。

2008年1月25日

伊勢神宮の正式名称

伊勢神宮の正式名称は「神宮」です。
ジモティーながら「おーっ!」と思います。
正式名称が神宮だなんて、神宮の中の神宮ってことですよね!?
テンション上がります↑

ご存知の方も多いと思いますが、神宮には内宮と外宮があります。
それぞれ、皇大神宮、豊受大神宮という正式名称がありますので、個で呼ぶときと、総称で呼ぶときは正式に名称が違うということになります。

と、書くとややこしいですが...
内宮=皇大神宮
外宮=豊受大神宮
内宮+外宮=伊勢神宮=神宮
ということです。

皇大神宮(内宮)の歴史は2千年、豊受大神宮(外宮)は千五百年といわれています。

が、神宮のすごいところは、それだけの歴史がありながら、式年遷宮(別の記事でご紹介予定です)によって、いつもフレッシュに保たれ、今日でも限りなく原型に近い状態を保っているということです。

最初からそういう意味が込められてのことなのか、あとからそう解釈されるようになったのかはわかりませんが、これは「常に若々しく美しくありたいと願う人々の心」のあらわれだとか...